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●西陣 にしじん

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 応仁・文明の大乱期に山名方の西軍が京都の北西に陣したので,その直後にこの地名がついた。この地域に機業地が成立するのは乱後のことであり,ほぼ16世紀に入ってからのことである。

 西陣機業の先駆は,すでに平安期における国営工房織部司に見られ,これが解体した後は,大舎人座・練貫座などの同業者集団として同地域の周辺部に位置していた。大舎人座は大舎人町を西陣の南方に形成し,練貫座は同地域の京方白雲村にあった。乱中はいずれも四散疎開し,一部は堺にあって機業技術を扶植するなど,地方の産業文化の発展に貢献している。乱が鎮静化するとともに続々と帰京し,しだいに西陣地域に定着した。

 近世に入ると,16世紀末にはすでに数十か町を形成するに至るが,17世紀に入ると同業者町は大きく進展し,167カ町を数えるに至っている。『京都御役所伺大概覚書』よると,西陣機業地の範囲は「東ハ堀川を限り,西ハ北野七本松を限り,北ハ大徳寺今宮旅所限り,南ハ一条限り,又ハ中立売通」と記しており,広大な地域が機業として認定されていた。

 さらに,19世紀の文化・文政期には地域の拡大が見られ,計222町に及ぶとされている。これから見ると,西陣機業地の人口は4〜5万人を超えることになり,近世京都人口35万人前後の約15%を占めるものであり,同時に世界有数の同業者町となっていたのであった。

 西陣の最盛期は17世紀末であるが,織機中の高機は七千余を数えたと言われるから,高機の織り手だけでも一万数千人があり,これに平機を加えると二万数千人の織工が存在したことが推定される。このうち高機では大舎人座を解体して仲間が形成され,高機八組(松・竹・梅・鶴・亀・永・紗・本字)が組織されていた。このほか平機(西機)の織屋仲間があったが,その数については明らかではない。また,西陣では,17世紀以後,急速に分業化が進み,分糸・撚糸・糸染などの関連産業が生まれその数も大きなものになっていた。

 この西陣機業の巨大さは江戸幕府の保護政策による絹糸の優先供給にも表れ,糸割符によって輸入される生糸の大部分は西陣に入った。しかし,17世紀には早くも唐糸のみでは供給不足という現象が見られ,和糸の奨励が行われて各地に養蚕地帯を形成し,その良質生糸の多くが京都に送り込まれた。

 だが,18世紀に入ると西陣機業による市物独占と江戸幕府の保護政策に大きな変化が見え始めた。その第一は,西陣の先端技術がしだいに各地に移出され,「田舎端物」と呼ばれた田舎絹の品質が向上し,西陣市場に圧迫を加え始めたことである。第二は,1730年(享保15)におこった「西陣焼」といわれる大火が機業地の約80%を焼尽し,甚大な被害を与えたことである。この後も「天明大火」(天明8)などで大被災を被っているが,この市場圧迫と大火による損失は西陣機業を大きく後退させた。田舎絹の進出は幕府とても止めようもなく,一定量の進出を認めるという方向に政策転換が行われた。大火による被害は後々まで西陣に大きな負担を強いたのである。

 さらに19世紀になると,幕末市場の構造的変化とともに西陣機業は大きな危機にさらされた。開発による生糸の暴騰によって西陣機業は大打撃を受け,休機する織屋が続出したのであった。維新は,東京遷都による都市的疲弊によってさらに西陣の打撃は加乗されたが,「府下人民産業基立金」よる投資と,明治5年フランス,リヨンより新鋭機ジャガード機を導入することにより技術革新を行い,その苦況を切り抜けた。

 そして明治20年代に入ると,ジャガード機の普及によって再び西陣の活気を取り戻すことになった。現在の西陣の範囲は大きく,江戸期の数倍の広がりをもっているが,和物需要の減退とともに相対的な力は衰えている。