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●錦絵 にしきえ

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 浮世絵版画の版画様式上の名称の一つ。江戸時代中期,鈴木春信(すずきはるのぶ)らによって完成された木版多色摺りの浮世絵版画のことをいう。江戸時代初期,京都大坂で盛んであった肉筆による屏風・掛け物の風俗画から始まったといわれる浮世絵も,寛文から享保ころ(1660〜1730年代)まではまだ肉筆による遊里の絵や芝居の絵などが描かれていたが,版画が大衆的な小説の挿し絵として登場すると庶民に大いにもてはやされた。この版画形式を風俗画に取り入れ新しい浮世絵様式をつくりあげたのが菱川師宣(ひしかわもろのぶ)である。当時の著名な流派としては,菱川(師宣)派をはじめ,懐月堂(安度)派,奥村(政信)派,上方の西川(祐信)派,役者絵の鳥居(清信)派などがあった。また版式も墨一色の「墨摺絵」から,墨摺絵に筆彩色を施した「丹絵」「紅絵」,多色筆彩の「漆絵」となり,1740〜1750年代には色摺版画である「紅摺絵」へと進展していった。1765年(明和2)一種の絵入りカレンダーである絵暦が江戸で流行した際,江戸の浮世絵師鈴木春信は狂歌師巨川(きょせん)・莎鶏(しゃけい)らの助言と,彫り師・摺り師の協力によって,三原色を中心にしながらそれらのかけ合わせによる中間色までも用いる多色摺り版画を完成させた。このことによって浮世絵版画は肉筆に劣らぬ豊かな色彩と量産ができる大衆性とを合わせもつようになり飛躍的に発達することになる。当時の人々はこの色彩豊かで美しい版画を錦のように美しいことから錦絵と呼びはじめた。錦絵とは元来,上方で流行した金襴などの小切れを張りつけた押し絵のことであった。錦絵は多色摺りというだけでなくその主題も大きく広げている。従来の浮世絵の歌舞伎や遊里の絵に対し,春信は当時の江戸町民がもっていた江戸気質とでもいうべき日常生活のもつ雰囲気を描きだした。従来の美人画は吉原の遊女などを題材にしていたが,春信は当時の江戸で評判の美人おせん・おふぐといった市井の美女を描き,その手足のかぼそい夢幻的な女性描写は独自の美人画のスタイルをつくり上げた。また若い男女間の恋愛などを写して,町人子女にロマンティックな夢を抱かせ江戸中の人気を集めた。こうして浮世絵の黄金時代が始まり,これ以後,浮世絵版画は錦絵と呼ばれるようになった。春信以外にも,鳥居清長は「清長美人」といわれる背丈の高い女を描き,そのみずみずしい姿態美と衣装美は美人画の一様式を確立した。これに対し喜多川歌麿は女性の顔かたちの美しさ,肉体美など女性美そのものを追求し,その美人画は一世を風靡した。役者絵では,役者の特徴を大首絵の中に誇張的に描いた東洲斎写楽,役者の美しい顔だちを写して大衆的人気を博した歌川豊国らがいた。こうした優れた絵師と彫り師・摺り師・版元との協力作業により,平面的構成,明確な色彩といった錦絵独特の世界が展開され,華麗けんらんな黄金時代を形成していたのである。1800年ころになって,錦絵も全国に普及し多量につくられるようになると,質的にはむしろ低下していった。官能的で写実的な美人画や役者絵が氾濫し,代わって風景画や花鳥画が主題となってきた。自然を客観的に見つめることで人間をとらえ直そうとする新しい自然観に基づいて,浮世絵師たちはいち早く遠近法や明暗法といった西洋の合理的な画法を取り入れ,独自の風景画の世界を築いた。色面構成による印象表現や独特の線で新境地を開いた葛飾北斎,客観的に対象をみつめ静寂で俳諧的な詩趣に満ちた安藤広重らが有名である。こうして江戸時代に隆盛を極めた錦絵も明治に入ると衰退の一途をたどった。錦絵は世相を伝える新聞の役割を果たすことになり,そのため新奇な題材が扱われ,効果を高めるために強烈な色彩が用いられた。いわゆる「赤絵」や「ポンチ絵」と呼ばれるものである。やがてそれも写真や印刷技術の進歩によって滅んでいった。長らく日本美術の主流から軽視されていたが,印象派など西欧絵画に与えた影響により再び注目されてきた。

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