●二月革命 にがつかくめい
ヨーロッパ フランス共和国 AD1848 第二共和政
1848年2月におこり,王朝国家間の利害調整で維持されたウィーン体制を最終的に崩壊させ,国民(民族)主義・自由主義をヨーロッパに奔流させた革命。フランスでの革命に端を発し,中欧・南欧・東欧に広がった。ウィーン・ベルリンでは三月革命と呼ばれる。【歴史的位置】産業革命が60年近くも以前におこったイギリス,終了しかけていたフランス,進行中のプロイセンと各国の発展段階は多様であるが,成長した綿工業・鉄鋼業などの産業資本家は,小市民・労働者層と袂を分かち,既成の政党に吸引されたり強力な国家権力への依存を強めたりする。それとともに労働者の運動も新しい方向転換がはかられる。こうしたなかで,国民(民族)主義もフランスではナポレオン3世,プロイセンでは少し遅れてビスマルクの政権のように立憲制をとりつつも議会制・政治的自由を抑え込んだ超階級的権力によって推進されることになる。農業国段階のイタリアでも共和主義にたつ統一運動よりも,巧みな外交によって国際関係を有利に転じようとするカヴールの方針が固められる。このように自由主義(共和主義)に代わり,保守的な立憲国家主導の国民(民族)主義への転換を1848〜1849年の展開のなかに見ることができる。隷農制を解決していなかったポーランドでは,士族の民族的自由主義運動もロシア・オーストリアに簡単に撃破される。
【各国の状況:イギリス】1832年の選挙法改正で取り残された小市民・労働者階級は,チャーティスト運動を展開していたが,1848年を最後に急速に衰え,これ以後は公認となった協同組合を組織して生活の改良をめざしていく。産業資本家層はホイッグ党のなかに浸透していたが,この党はトーリー党の自由貿易派も吸収して層の厚さを加えた。外交を担当したパーマストンは,大陸の民族運動を援助しフランス・ロシアをにらんだ国威発揚外交を展開する。
【フランス】パリで勃発した二月革命は,ルイ=フィリップとギゾー首相を退陣に追いやった。臨時政府には労働者代表も進出したが,4月の制憲議会選挙で大敗,国立工場問題でも階級的に孤立・後退を強いられた。他方,ブルジョワ共和派も次の立法議会で基盤の弱さを露呈。保守的名望家層の復活が見られた。12月圧倒的支持で大統領に選ばれたルイ=ナポレオンは,1849〜1850年には王党派連合との協調政治を行い,ローマ共和国への干渉・教皇権の復活を果たした。それでも内心,東・南欧諸民族の解放援助という大ナポレオンの偉業を継ぐ野望を秘めていた。
【ドイツ連邦】パリでの革命の報で決起した西南ドイツの自由主義者と,連邦議会の各邦代表との圧力で,5月に召集された国民議会は,1849年3月,フランクフルト憲法を制定し,邦政府の存在は棚上げにして,ドイツ国民としての自由・二院制・世襲皇帝を定めた。しかしプロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世(在位1840〜1861)がドイツ皇帝就任を拒んだため,憲法は流産。かくしてドイツ統一は,諸邦政府,とりわけプロセイン邦での気運の熟成まで待つことになる。憲法審議でもち上がった大ドイツ主義・小ドイツ主義の論争は,その後も継続している。
【プロイセン】ベルリンでも3月18日の市街戦の結果,国王が譲歩して自由主義者の新内閣を任命。しかし,4月連合州議会が王に召集させた国民議会での憲法審議中に,貴族・官僚が勢力を盛り返し,ウィーンでの革命派の鎮定もあってユンカーを基盤とする保守派の内閣に代わった。暫定的な欽定憲法ではそれでも普通間接選挙を採用していたが,1849年5月には保守派の下院で三級選挙法を制定。1850年1月のプロイセン憲法では,上院に等族的・貴族的性格を残していた。西南諸邦での民主派の暴動にも鎮圧軍を派遣したが,やがて統一問題ではオーストリア排除の小ドイツ主義が有力になる。
【オーストリア】ウィーンでの3月13日の民衆暴動により,メッテルニヒはイギリスに亡命したが,成果は宮廷内の政権の移動にとどまり,いったん同意した憲法制定も,1849年3月,宰相シュヴァルツェンベルグが反古にし,ハンガリー・イタリアの領土を含む全オーストリアの欽定憲法を制定し,ドイツ統一運動に背を向けた。他方,ハンガリーでは,自由主義貴族のコッシュートなどが要求した独立の立憲議会の設立と隷農制の有償廃止は満たされ,ハンガリー人の副王制も導入されたが,9月になって国王(オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世)は議会を解散,三月革命以前に戻そうとした。このため10月には全面対決となり,1849年4月には独立を宣するが,土地なし農民や他のスラヴ系民族を組織しえずロシアの介入で敗北した。また,パラツキーなどチェコ民族のプラハ蜂起は地域的・民族的要求を強めようとしたが,ドイツ人・ハンガリー人の同調を得られず鎮圧された。
【その他のドイツ連邦】ヘッセン・バイエルンなどで立憲的自由が実現したが,統一については,普墺の間で邦国としての行動の自由に執着し気運は盛り上らず,フランクフルト憲法は多くの邦で拒否された。1831年の一院制議会や1849年の民主的選挙法が,フランクフルト議会により無効とされたクール=ヘッセンの例もある。1850年にはザクセン・ヴュルテンベルグのように,邦君主が議会解散・自由主議的選挙法を撤回し反動を強めた。
【イタリア】3月,サルディニア王カルロ=アルベルトは,パレルモの蜂起を機に立憲体制を樹立。オーストリアと交戦し自力解散を宣した。1846年から,ローマ市の自治施行など改革運動の先陣にあり期待を集めていた教皇ピウス9世は,オーストリア=カトリックの圧力を受け,ナポリ王フェルディナンドとともに戦いから離脱。マッツィーニの青年イタリア党が1849年2月に樹立したローマ共和国は,フランス軍に制圧された。ただ一国残ったサルディニアは,パルマ・モデナを併合しオーストリアと対決したが,1849年3月ノヴァラで敗れ統一運動は一時頓座した。だが,戦陣に父王を継いだヴィットリオ=エマヌエーレ2世は,ラデツキ将軍の圧力に抗し憲法を堅持した。
【ポーランド】ガリチアでは1846年の士族の蜂起が農民武装隊のために失敗に終わったことから,1848年には,諸階級から成る民族会議が隷農制の廃止を唱えたが,ウィーンがグレーツ将軍によって奪回されると戒厳令が布かれ,民族会議は解散。制憲の試みも失敗した。プロイセン王は自領内のポズナニでのポーランド軍の結集を認めたが,ロシア皇帝ニコライ1世(ポーランド王兼任)の圧力で武装解除された。
【社会主義の動き】二月革命は,社会主義の運動も高揚させたが,フランスではプルードンのような政治権力を求めず,労働者間の自主的な結合・地域連合を尊重する新しい思想が生まれた。これに対し,ブランキは人民蜂起による市庁占拠を試み,小市民・労働者の政治行動を重視した。ドイツでは,マルクス・エンゲルスによる共産党宣言が出され,生産手段の共有によって資本主義を変革しようとしそのための階級闘争を呼びかけた。実践上も,彼らの共産主義者同盟は三月革命勃発後パリからケルンに移り,ドイツ統一共和国を旗印に各邦での急進民主主義者の運動に身を投じ,バーデンなど西南ドイツを転戦した。
〔参考文献〕岡義武『近代ヨーロッパ政治史』1978年,創文社
良知力編『〔共同研究〕1848年革命』1979年,大月書店
阪上孝『1848年のヨーロッパ』1984年
![]()