●新潟 にいがた
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現在の新潟は,新潟県の県庁所在地で人口約45万人。日本海側で最も大きな産業・商業都市となっている。新潟は,王朝時代に初めて渟足の柵(沼垂)(646)として姿を現す。信濃川の河口に位置し,戦国時代の末には阿賀北の豪族新発田氏が港として利用していたが,町の規模は小さかった。江戸時代には,越後一円を領した堀直竒が新潟の商人を保護し,さらに長岡藩領となって藩主牧野忠成に保護され,繁栄の基礎が固まった。1633年(明正10),大洪水によって信濃川と阿賀川が合流すると,河口の水深が深くなり港としての自然条件が備わった。江戸時代の新潟港の特徴は,信濃川・阿賀野川の水上交通を利用でき広い後背地をもつという点にあった。この両河川は,日本最大の延長をもつ大河で,信濃川は六日町まで,阿賀野川は津川まで荷物船が上り下りして,越後各地の藩領米・材木・炭などの商品を新潟に集めた。能登の上梶家文書によると,寛永(1624〜1643)のころ,能登塩が毎年定期的に沼垂(新潟の一部)港に積み込まれ,新潟商人の手を経て会津方面に出荷され,1655年(明暦元)新潟の町なかに信濃川に並行して東堀・西堀と,これらの堀を結ぶ五葉堀がつくられ,水上交通の要地となった。記録によると17世紀末,1年間に入港した船は3,500隻に達している。1661〜1672年(寛文年間)には,信濃川と関東の利根川の水運を結んで物資の江戸輸送が計画されたが,敦賀商人の猛反対で実現をみなかった。新潟港の繁栄もこのころが頂点であった。1731年(享保16)には,阿賀野川が信濃川と分かれたため港の水深が浅くなり,1741年(寛保元)には入港船は約2,000隻に減少している。こうしたなかで明和事件がおきる。1768年(明和5)長岡藩は,藩財政の窮乏をまかなうため新潟町に1,500両の御用金をかけた。御用金に反対する町人たちはひそかに打ち寄り相談をしたが,長岡藩は相談の頭取涌井藤四郎を捕えた。これがきっかけとなって暴動がおこり,数百人の町民が町会所などを打ち毀した。動きの拡大を恐れた藩は涌井を釈放し,新潟は2日間にわたる打ち毀しの後,湧井が町政を掌握した。しかし1770年(明和7)8月長岡藩は湧井を斬首の刑に処した。1843年(天保14)幕府の直轄地となり,現在の市役所付近に新潟奉行所が置かれた。1858年(安政5)日米修好通商条約に伴って開港場となり,1868年(明治1)に使用が開始された。しかし水深が浅いこと,冬期北西風が強く風波が高いことなどで,貿易港としてはほとんど利用されることがなかった。戊辰戦争では官軍と幕軍の戦場となった。米沢の色部長門と薩長軍との間で3日間にわたり戦闘が行われ,町の中心部500戸が戦災を受けている。明治に入り県庁が置かれると,港としての性格から政治の中心地としての性格を強めていく。しかし蒸気船が海運の主流を占め水深が要求されるようになると,信濃川を途中から海に落とす大河岸分水の完成により土砂の流出がくいとめられ,近代的な川港として整備された。戦争中は,日満航路の基点として発展を見ている。第二次世界大戦が終わって後,天然ガス・電力などに恵まれて臨海工業地帯が形成され,1964年(昭和39)には新産業都市に指定されている。しかし同年,新潟地震によって大きな被害を受けた。その後1967年(昭和42)新潟港は特定重要港湾に指定され,関屋分水の事業(1971・昭和46)によって再整備された。また工業専用港として新潟東港が設置され,日本海側最大の港湾工業都市として発展し,現在に至っている。
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