●南洋興発株式会社 なんようこうはつかぶしきかいしゃ
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日本のミクロネシア統治時代“海の満鉄”といわれ,内南洋を制覇した民間企業。【設立の経緯】第一次世界大戦に参戦した日本は,1914年(大正3)10月ドイツ領ミクロネシアを占領し,これに軍政を布いた。当時の内地における財界の好況は,1915年(大正4)から1919年(大正8)にかけて,この新地域に対し数々の開発企業の進出を促した。その代表格として,サイパン島の製糖事業とロタ島の綿作事業を手掛けた西村拓殖株式会社・サイパン島で製糖事業を行った南洋殖産株式会社・テニアン島でヤシ園の経営と綿作事業を行った喜多合名会社を挙げることができる。これらの企業はいずれも堅実味と計画性を欠いていたので,1920年(大正9)の財界恐慌に遭うとたちまち壊滅にひんし,特に西村拓殖株式会社と南洋殖産株式会社がサイパン島に招致した千余名の移民は糧道を断たれて飢餓状態となり,加えて貝殻虫によるヤシの大被害は原住民の主要食糧をも奪うという惨状をもたらした。この事態は,群高統治の受任国であるわが国の威信にかかわる重大な国際的社会問題でもあったので,当時この解決策に奔走していた群島防備隊民政部長手塚敏郎(後の南洋庁初代長官)と,政府から救援出動を要請されていた東洋拓殖株式会社(主として朝鮮半島の開発を担当した国策会社)総裁石塚英蔵は,たまたま台湾の新島製糖株式会社の役職を辞してマリアナ諸島の調査を行い,南洋糖業の再建に確信をもつ松江春次を招いてその意見を聴き,さらに松江を加えた調査団を派遣の結果,東洋拓殖株式会社がその対応に出動することに決し,さしあたって食糧を緊急輸送するとともに,松江の計画を基礎に製糖事業振興の方針を樹立,ここに松江春次を経営首脳とする南洋興発株式会社の設立を見るに至った。ときに1921年(大正10)3月。設立の手法としては,西村拓殖株式会社(1917年(大正6)2月西村惣四郎がサイパン島に創立した西村製糖所を1919年11月法人組織としたもの)を母体として,大幅減資と東拓等の引き受けによる増資・経営陣容の更迭を行い,母体の権利義務一切を承継するとともに南洋殖産株式会社の権利を買収し,社名を南洋興発株式会社と変更したものである。
【マリアナ糖業の確立】同社はまずサイパン島の浮浪移民を吸収するとともに,1923年(大正12)3月サイパン製糖工場を建設して華々しくスタートを切った。しかし,干ばつと害虫による原料の甘蔗(しょ)の大被害を受け,加えて関東大震災で製品砂糖の大部分を焼失するという創業早々の危機に見舞われたが,松江の不屈の闘魂はこの試練を克服し,操業3年目にして初配当を行う業績を収めるに至った。その後同社は,1935年までにサイパン島に酒精工場,テニアン島に製糖工場・酒精工場・第二製糖工場,ロタ島に製糖工場と次々に完成させ,ここにマリアナ諸島における糖業を確立した。この間同社が納付する出港税の額は急増し,南洋庁は1932年(昭和7)度において台湾総督府に次いで財政の独立を達成することができた。
【事業の目的と規模】糖業の振興によって生ずる利益を,同社本来の目的とする拓殖事業に広く注入するため,群島内における燐鉱・水産・農園の経営を初め,1931年(昭和6)にニューギニア,1937年(昭和12)にセレベス(現スラウェシ)とチモール等の外領事業にも進出,さらに1942年(昭和17)7月には南洋貿易株式会社を合併した結果,その事業範囲は製糖業・酒精および製酒業・鉱業・水産業・農園業・交通運輸業・油脂工業・貿易業と広範に及び,十数社の傍系企業を擁し4万8,000名の人口を擁して,文字通り国家的使命を担う総合事業会社へと伸展した。
【終末】太平洋戦争の末期においては,同社の主要事業所所在地が日米死闘の激戦場となり,特にマリアナ三島の“玉砕”に伴う多くの犠牲者を出した上,ほとんどの事業施設は壊滅,戦後の1945年(昭和20)9月には,連合軍司令部から企業の即時閉鎖を命ぜられてその命脈を断った。なお,同社の閉鎖機関指定は,1954年(昭和29)に解除されたが,再びよみがえることはなかった。