50音順    検 索

●南洋群島委任統治領 なんようぐんとういにんとうちりょう

AD 

【委任統治制度】委任統治制度の構想は,南アフリカのスマッツ将軍が唱えたものを,アメリカのウィルソン大総領が具体化したものであると言われている。すなわち,第一次世界大戦敗戦国であるドイツ・トルコの属領に対し,これらの地域を占領した国から領土併合の要求が出されたが,ウィルソン大統領が併合には強く反対したので,結局妥協の産物として委任統治制度がつくられることになった。委任統治の種類として,原住民の文化程度や地理的関係に基づいて,三つの様式に分類され,国際連盟規約第22条に規定された。【南洋群島委任統治】第一次世界大戦に際し,日本海軍南遣支隊は赤道以北のドイツ領南洋群島を占領し,トラック諸島夏島(現在のデュブロン島)を本拠地に軍政を行った。大戦後の1919年(大正9)6月28日にヴェルサイユで署名された国際連盟規約第22条第6項に基づき,翌1920年12月17日に国際連盟理事会で決定された「太平洋中赤道以北に位する旧ドイツ国属地に対する委任統治条項」により,これらの地域は日本が受任国として委任統治を行うことになった。後に,この地域の委任統治はC式の委任地域と称せられるようになった。C式統治の特色は,受任国領土の一部としてその国法のもとに施政を行うこととされたが,本国統治と違う点は,土着人民の利益のために信教の自由を保障し,奴隷の売買・武器および酒類の取引き・軍事的施設を設けることなどが禁止されたことと,委任地域に関する年次報告書を国際連盟理事長に提出する義務を負ったことである。なお,アメリカはヴェルサイユ条約を批准せず,委任統治に関する協定にも参加しなかったので,1911年(大正11)日本・アメリカ間で「ヤップ島及他の赤道以北の太平洋委任統治諸島に関する日米条約」が締結された。1935年(昭和10),日本は国際連盟から脱退したが,南洋群島は日本の構成部分であるとして,第二次世界大戦の終結時まで引き続き統治した。

【南洋群島の法令・行政機構】南洋群島には大日本帝国憲法の効力は及ばないとされ,そのため憲法上の法律事項についても,法律によらないで勅令その他の命令によって規定されていた。また,南洋群島の原住民は島民と称し,日本帝国臣民としての身分は与えられなかった。南洋群島の統治が,従来の軍政に代わり委任統治としての施政を行うことになったことにより,すでに民政部をトラックの防備隊司令部から分離してパラオのコロール島に移すなど部分的に民政化を行っていたが,1921年(大正11)4月1日,委任統治施政官庁としての南洋庁が開設されると共に,南洋庁による施政が行われることになった。南洋庁長官は,当初,内閣総理大臣の指揮監督を受けていたが,1929年(昭和4)から拓務大臣の,1942年(昭和17)からは大東亜大臣の指揮監督を受けることになった。行政区域として,南洋群島をパラオ・ヤップ・サイパン・トラック・ポナペおよびヤルートの6地区に分け,それぞれに南洋庁の支庁を設置した。その後,サイパン支庁にテニアン・ロタ両支庁出張所が設けられたが,1943年(昭和18)戦争の進展に伴って行政区域が簡素化され,3支庁(北部−サイパン・西部−パラオ・東部−トラック)5支庁出張所(テニアン・ロタ・ヤップ・ポナペ・ヤルート)に改められた。原住民による自治行政機構としては,1931年(昭和6)に「南洋群島部落規程」が施行され,原住民部落の機関に一定の公共事務を処理させた。またこれとは別に,1922年(大正11)に「南洋群島民村吏規程」を制定し,カナカ人部落に総村長および村長を,チャモロ人部落に区長および助役を置いて,原住民による部分的な自治を認めた。

【人口・経済】1940年(昭和15)における人口は,日本人8万490人(内地人7万7,011人,その他3,479人),島民5万648人,外国人120人,総数13万1,258人で,日本人が島民をはるかに上回っていた。主要産業としては,農業(甘蔗,タピオカ)・林業(コプラ)・水産業(カツオ,白蝶貝など)・鉱産物(燐鉱,ボーキサイト)・工業(砂糖,アルコール飲料,糖蜜)などであり,1944年(昭和19)には60社の日本企業が南洋群島に本社を置いていた。

〔参考文献〕南洋庁『南洋群島要覧』(各年版),岩波書店

南洋庁『南洋群島施政十年史』,岩波書店

矢内原忠雄『南洋群島の研究』,岩波書店