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●南北問題 なんぼくもんだい

ヨーロッパ アイルランド AD 

 世界には,国連加盟国だけでも158カ国(1984年1月現在)あるのに対して,経済的・社会的発展の水準が高い先進国は,経済協力開発機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)加盟17カ国と,社会主義経済のソ連・東欧ぐらいのものである。これら以外の大半は貧しい発展途上国である。先進国のほとんどが地球上の北側に,発展途上国の大部分は赤道を中心とした熱帯・亜熱帯に位置しており,先進国から見れば南側にあるので,先進国と発展途上国との問題を南北問題と呼んでいる。“北”は世界人口の約24%(1980)であるのに,世界の国民総生産(GNP)の約79%(1980)を占めている。1日1人あたりカロリー供給量(1977)では,“北”の約3,400カロリーに対し“南”は約2,400カロリーにすぎない。平均寿命(1980)でも,“北”の71歳以上に対し“南”は59歳である。このような南北間の大きな格差は,国内的にも国際的にもさまざまな問題を引きおこし摩擦の原因となる。とくに“南”の貧困は,不平等の拡大と権力の集中を生み,国民の不満を高めて政情不安の原因となっている。これは“北”や隣国の介入を招き,東西対立ともからみながら世界の平和を脅かしかねない。さらに,“南”は第二次世界大戦前は“北”の植民地であり,工業化や社会的近代化が遅れた。このため,第一次産業中心の“南”は国際競争上の劣位からさまざまな不利益をかぶってきたので,南北関係を一層有利なものに変革したいと考えている。このように南北問題には,先進国と発展途上国の間にある大きな経済格差やそこから生じる諸問題,そして南北間の政治的・経済的諸関係から生じる問題などが含まれる。

【歴史的展開】南北問題は,第二次世界大戦後の東西対立の谷間で育ったと言える。大戦後の世界政治・経済の再編成のなかで,ソ連を中心とする東側が社会主義陣営の拡大を追求する一方,アメリカを主導国とする西側は自由主義体制に基づく世界的発展をめざして,両陣営の対立は激化した。植民地であった途上国が独立してからどのような社会体制をとるかの選択は,どちらか片方の陣営との相互依存関係を強めることを意味していた。また,“南北問題”ということば自体は,1959年にイギリスのオリバー=フランクス卿が用いたのが始まりだと言われているが,“東西問題”がもじられたものである。南北問題の起源は1950年代の東西関係に見出されるのであり,東西問題と南北問題は深いかかわりをもってきたのである。1950年代は,東西両陣営が経済援助を利用した勢力圏拡大の競争が盛んであり,南北問題の中心的課題は経済援助の問題であった。1960年代になると,南北問題は東西問題から独立していくとともに,貿易問題に重点が置かれるようになった。このような潮流を考えるとき,“南”の連帯と結束を推進する主流になった非同盟運動を閑却するわけにはいかない。これは平和共存・反植民地主義,東西の相対立する軍事ブロック不参加を主目的とするもので,第1回非同盟諸国首脳会議が1961年ベオグラードで開かれた。非同盟諸国首脳会議や“南”の結束した行動のあと押しもあり,南北問題を検討し対策を勧告するために国連総会の常設機関として国連貿易開発会議(UNCTAD:アンクタッド)の設立が決定された。1964年に第1回総会がジュネーブで開催されている。このとき,[1]貿易・開発などを中心とする諸問題のグローバルな取り組みの発足,[2]世界銀行からの補足融資,[3]国民所得の1%の援助目標,[4]援助よりも貿易を,といった事項が決定された。

 UNCTAD が設立されるにあたっては,その開催推進グループとして,77カ国グループが誕生した。UNCTAD 総会開催前に,意見や主張の調整・統一と会議に対する戦略形成のために集まり,その考え方や結果が会議に大きな影響を与えている。このようにして,国連のなかでとくに“南”の貿易上の経済要求を実現するための国際的な連帯行動が成立し,南北問題を単なる援助の問題としてではなく,南北間における一次産品と工業製品間の交易条件の不平等によって引きおこされる問題としてとらえ直されるに至った。1960年代は世界経済が高度成長期にあったため,“南”の要求が比較的通りやすかった。1968年ニューデリーで開かれた第2回 UNCTAD 総会では,一般特恵関税制度(全発展途上国の輸出品を無差別に関税上優遇する制度)が会議の焦点となったし,先進国の援助目標を GNP の1%とすることも決定された。しかし,1973年のオイルショック以後の長期的不況の時代に入ると,先進国のほうでも要求に応える余裕が少なくなっていった。その一方,1970年代は,オイルショックに代表されるように,とくに OPEC(オペック)諸国を中心とした途上国の側でエネルギー資源を活用して先進国の協力を取りつけることも試みられ,“南”の“北”に対する取引き能力が躍進的に強くなった。そればかりでなく1960年代の終わりごろから,地球には無限の経済発展を可能にする条件が欠けているという,いわゆる“成長の限界”についての地球的規模での反省がわきおこり,資源問題・環境汚染問題・食糧人口問題などについて,“北”が“南”の協力を得なければならない状態が出現した。このような状況が組み合わさって,1970年代の南北問題は単に経済援助問題や南北貿易問題にとどまらず,より広範な形で“南”が新しい国際経済秩序の構築を“北”に要求するようになった。1974年の国連総会で採択された新国際経済秩序(NIEO)の樹立宣言は,このような南北問題の潮流を象徴している。〈現存する国際経済秩序のもとでは公平かつバランスのとれた国際社会の発展を実現することが不可能であることが証明された。先進国と開発途上国間の格差は,大部分の開発途上国がまだ独立国としては存在していなかった時に形成され,不公平を固定化する機構の中にあって更に拡大していくであろう。〉(外務省情報文化局編『南北問題関係資料集』)といった基本的認識のもとで,同宣言では,先進国の繁栄と途上国の成長との間には密接な関連があり,開発のための協力はすべての国の目的であり,共通の義務であると規定している。したがって,宣言の内容は[1]途上国の発展のために適当と考えられる経済社会制度の自由な採用,[2]天然資源に対する恒久主権とその行使権の拡大,[3]途上国に不利な現行国際通貨金融制度の改革,[4]多国籍企業の規制と監視,[5]途上国に不利な貿易および交易条件の改善などを含んでいる。1970年代は,“南”の世界に分化現象が見られるようになったことでも重要な特徴をなしている。いわゆる“南南問題”であり,中進国(あるいは新興工業諸国 NICS)と最貧国(MSAC),産油国と非産油国の間で格差が広がり,利害が一致しない分野が生じてきた。深刻な長期的世界不況のなかでも,工業化と輸出を中心に高成長を達成してきた中進国(韓国・シンガポールなど)が多くの開発論者の目をみはらせた反面,長期にわたって最貧困状態に苦しんでいるアフリカの諸国も多く,“南”の内部での成長格差は拡大したのである。また,資源問題がクローズアップされた時期だけあって,産油国は資源ナショナリズムの高揚によって先進国から有利な条件を勝ち取り,国民経済の発展条件を大幅に改善できた。だが,石油価格の高騰によって打撃を受けたのは先進国だけでなく,非産油発展途上国もそうであり,“南”の内部で資源国と非資源国の利害が対立している。このように,“南”の分化現象は利害関係の多様化を生み,連帯と結束を多様化し,途上国間の調整と統合を難しいものにしている。以上概観したとおり,1970年代になってからの南北問題は,1950年代から1960年代にかけての開発問題とは性格が違ってきており,さまざまなグローバルな諸課題との関連が強調されている。それだけに,人類がグローバルな諸課題を解決しなければ先進国を含めて生存していくことが不可能となっている現在,先進国の側でもある段階で途上国に対する譲歩に踏み切らざるを得ないのである。しかし,この深刻な問題を含む南北間の交渉は必ずしもうまく進展してはいないようである。1980年にブラント元西ドイツ首相を委員長とするブラント委員会が,国連事務総長に報告書『南と北−生存のための戦略』(略称ブラント報告)を提出した。同報告では世界の経済秩序の改革と認識され,経済成長・貿易における南北間の大幅な補完関係を指摘し,先進国に発想の転換を迫るものとして注目された。とくに南北間の当面の緊急課題を討議するため,“南”と“北”の首脳の会議も提唱した。これを受けて,1981年メキシコのカンクンで発展途上国14カ国・先進国8カ国の合計22カ国の首脳による対話がもたれた(南北サミット)。しかし,一次産品・エネルギー・貿易・開発・通貨・金融の五つの問題について国連で包括的な南北交渉を行い,南北間の格差や利害を一括調整しようとする国連包括交渉の問題では,アメリカと“南”の対立が目立った。また,1983年ベオグラードで開催された第6回 UNCTAD では,一次産品・貿易・通貨・金融・最貧国問題を主要議題に,“南”と“北”の話し合いが行われた。世界銀行などからの融資について途上国側の要求がある程度受け入れられたものの,最大の焦点であった最貧国向けの公的借款を贈与に切りかえる問題をはじめとして,先進国が南北問題の解決に向けて示した具体的な取り組みはほとんどなかったと言える。

発展途上国の開発理論】南北問題それ自体に一つの潮流があるように,途上国に対する開発理論にも歴史的な変遷が見られる。1960年ごろまでは,先進国の経済成長理論をどう適用していくか,またマルクス主義の立場からは途上国を搾取メカニズムからどう解放していくかが中心に考えられた。ロストウの成長段階説によれば,経済社会の歴史は伝統的社会・テイク=オフ(離陸)準備段階・テイク=オフ段階・成熟段階・高度大衆消費時代の5段階に分けられるという。低開発国をいかにテイク=オフさせて恒常的成長を実現していけるようにするか重要な政策課題として問われた。あるいは,“貧困の悪循環”(ある国が貧困なのは,貧困のために資本蓄積もできず投資するカネもなく生産力を拡大させることができない。一方,市場が発展しないから生産力拡大への刺激がなく,結局貧困だから貧困になるという考え方)の罠からいかに脱出させるかが問われた。そこで重視されたのが外的な成長刺激策である援助と貿易であった。しかし,経済援助や貿易優遇を与えさえすれば解決するというものでもないことがわかるようになると,開発問題は単に経済面のみならず,社会面・政治面など各局面から総合的に取り組むことが要請された。このようにして,1960年代になると社会学者・政治学者・文化人類学者などの開発問題に対する発言が積極的に取り入れられるようになると共に,開発計画づくりが盛んになった。経済開発と社会開発の均衡が重視され,開発政策のなかでは住民に対する雇用機会の創出・生産性の上昇・所得分配の公平などを促進すべきだという課題が強まっていった。とくに経済開発論では,先進国からの海外直接投資を導入して工業化を促進し,同時に貿易を発展させようという考え方が多く展開された。狭い国内市場向けの工業化にはおのずと限界がある以上,急速な成長を望むならば輸出市場をめざした工業化は不可避である。しかも,関連産業の裾野をもたない未熟な工業化段階からの出発であるから,輸出指向工業化を推進しようとするのであれば,素材・中間製品・資本財を先進国より輸入し,それを組立て・加工した最終財を輸出に向けるという“加工貿易型”の工業構造をその体質とせざるを得ない。この比較優位の最大の決定要因である低賃金労働力の存在を十分に活用して急成長を遂げたのが,アジアの中進国であった。また,1960年代は EEC の成功を見て,規模の経済を論拠に“南”の世界に多くの共同市場がつくられた。1970年代の開発理論の流れは,[1]開発の仕組みや秩序を変革する指向を強くもったこと,[2]“南”の内部から生み出された理論が影響力をもつようになったこと,[3]人口問題や都市問題などの新しい課題への対応を迫られたこと,この3点で以前とは異なっていた。ことに第2の点については,この時代に主要な流れの一つとなったものに従属理論(Dependency Theory)がある。この理論は,資本主義社会には中心あるいは中枢となるものと,周辺または衛星的立場に置かれるものとができ,その間に中心が周辺を支配・従属下に置くような仕組みが歴史的につくられたと主張する。したがって,世界的には“北”が中枢で“南”が周辺となり,国内的には支配階級が中枢で大衆が周辺的立場に立たされていることになる。両国内の中枢が癒着して,貿易や資本輸出そのほかあらゆる国際関係を通じて中枢が周辺を搾取していると従属理論は考える。また,このような仕組みが歴史的に組み込まれている現在の国際的・国内的秩序を変革して,自由・平等・正義が実現されるようなものにする必要があると主張し,発展途上国の対外政策や NIEO 運動に大きな影響を与えてきた。1970年代になってからは,開発において技術の役割がとくに強調されたことも見逃せない。先進国の科学技術を途上国の開発のためにどのように活用し移転するかといった技術移転論の研究が盛んとなった。“技術は人類共通の遺産”と途上国は主張するが,現実の技術移転は必ずしも途上国の期待に沿うものとなっていない。第1に,途上国の必要とする技術の大半は先進国の私的企業によって保有されており,それへのアクセスを獲得するために途上国は多大のコストを要する。第2に,移転される技術は一般に労働節約的であり,途上国の工業化の主眼である雇用創出に効果的ではない。第3に,先進国企業による直接投資は,ノックダウン方式の乗用車組立てに見られるように,生産拠点の移転にはなっても製造技術の移転を意味しないことがある。第4に,技術移転に対する依存が先進国への継続的な技術的従属につながり,国内技術の開発にとって阻害要因となり得るということである。以上のような問題点のほかに,先進国の技術移転は大半が多国籍企業によるところから,先進国の立場はいっそう複雑なものがある。一般に,先進国にとって南北間技術移転を積極的に奨励できるのは,そこから得られる収入が十分期待でき,しかもブーメラン効果(先進国が途上国向けに行った経済援助や資本投資の結果,現地生産の製品が現地市場の需要を上回り,先進国へ逆輸入されて先進国の当該産業と競合すること)も含めて,自国経済に明らかな悪影響を及ぼさない場合に限られる。

〔参考文献〕川田 侃『南北問題』1977,東京大学出版会

斎藤優編『南北問題』1982,有斐閣