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●南北朝時代 なんぼくちょうじだい

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 日本史上の時代区分の一つ。狭義には,南北両朝の対立を指標として,光明天皇の践祚・後醍醐天皇の吉野遷幸の1336年(建元1・建武3)より両朝合体の1392年(元中9・明徳3)までの57年間をいうが,広義には,当該期のもつ社会的変動期たる属性を重視して,建武新政期二年余を含めて,鎌倉幕府滅亡の1333年(元弘3)よりの60年間をいう。室町時代という時代区分名との関係では,これを室町時代に含めるのがふつう。

【動乱の時期区分】この時代は日本史上稀にみる全国的規模での動乱期であって,その結果社会的大変革がなされ,政治体制の上のみならず庶民生活の構造の面にも多大の変貌が見られた。とくに現在の庶民の生活や風俗・文化の原型がこの時期に形成されたことは注目される。南北朝の動乱はそのいくつかの軍事的・政治的画期を指標としてふつう三段階に区分して理解されている。第1期は南朝が独自の軍事力で室町幕府および北朝に対抗できた時期であり,双方の戦いはこの時期最も熾烈にくり広げられた。第1期は1336年より南朝の東国経営の拠点たる常陸の関・大宝両城陥落の1343年(興国4・康永2)まで,あるいは楠木正行(まさつら)が四条畷(しじょうなわて)で戦死,吉野行宮が陥った1348年(正平3・貞和4)までとする。この間に,楠木正成・名和長年・結城親光・千種忠顕(三木一草)のほか新田義貞北畠顕家ら南朝の有力将士が戦死,南朝は致命的な打撃を被った。第2期はそれ以降,反幕の驍将山名時氏帰属の1364年,あるいは南朝がある程度の軍事力を組織できた1367年までとする。この期は観応擾乱(じょうらん)に象徴される幕府内部の抗争に乗じた南朝が反幕武将の加勢を得て,京都争奪戦を演じ得た時期である。第3期はそれより1392年(元中9・明徳3)の両朝合一までで,九州南軍の制圧や有力守護の統制を達成した室町幕府の確立期にあたるが,幕府制度からみると管領制の確立と深い関係を有している。1392年の和議の際の両統迭立(りょうとうてつりつ)の条件は実行されなかったため,潜伏した南朝遺臣による皇位回復をめざした小反乱が15世紀半ばまで続いた。

【政治過程】南北朝の動乱60年を経ることによって,第二の武家政権たる室町幕府が確立をとげた。室町幕府の実質的な成立は1336年(建武3)の建武式目の発布と見なされているが,京都に本拠を構えた幕府の支配体制構築への歩みは幾多の波乱含みであった。幕府の内訌はとくに先に示した第2期に顕著で,直接的には将軍足利尊氏の実弟で政務の実権を委譲されていた足利直義と将軍家の執事高師直との確執に端を発したが,その背後には幕府権力機構の未確立や武家政権のもとに集合した諸階層の利害関係など複雑な問題が伏在していた。この内訌は観応擾乱として幕府の屋台骨をゆり動かしたが,尊氏はよくこれを乗り切り,二代将軍足利義詮(よしあきら)のもとに将軍権力を一元化させ,将軍の専制政治への道を開いた。義詮の将軍就任期はいわば幕政の充実朝であり,管領制が成立するなど将軍権力が高揚した時期でもあった。1367年義詮が没すると,義詮に嗣子義満の後見を託された管領細川頼之が将軍権力を代行し,三代将軍義満の成人に至るまでの幕政の不安定期を巧みに乗り切るとともに,幕府管領制を確立させた。義満が1372年(応安5)の判始を機として将軍としての基本的権限を漸次行使するようになったのはこのためである。細川頼之や斯波義将を管領に任用した義満の執政期は室町幕府の確立期にあたった。公家政権としての北朝の固有の政務は光厳院政期に最も活況を呈したのち漸次幕府の所轄へと移行し,その政権としての実体は後円融院の時期に失われた。一方,南朝勢力の全面的衰微のなかで勢力を誇った征西将軍宮懐良(かねよし)親王の九州南軍が,1372年(文中1・応安5)九州探題今川了俊の軍略によって切り崩されたことも幕府の全国支配を確固たるものにした。こうした政治的・軍事的状況は南北朝合体のための条件を整えることとなり,1383年(弘和3・永徳3)長慶天皇に代わって践祚した後亀山天皇は,ついに1392年に義満よりの和議に応じたのである。

【社会・経済】南北朝の動乱は中世社会の変容に拍車をかけた。幕府は全国統治の基盤を守護制度に求め,足利一門守護を中心とする守護分布図をつくりあげるとともに,守護権限を強化して,幕政の基礎を固めた。この方策は反面では守護の分国経営を可能にし,いわゆる守護大名を生み出すこととなった。半済令(はんぜいれい)が守護の国内荘園公領の侵奪を促進し,荘園制破壊の槓杆となったことは言うまでもない。鎌倉期の武士社会に一般的であった惣領制に基づく分割相続に代わって,南北朝期には所領の細分化抑止のため嫡子による単独相続が多くなり,このことも武家社会の構造を大きく変えた。先に見たように,中央の権力が分裂し,動乱が全国に及び長期化した背景には,地方武士団における結合の仕方が血縁から地縁へと転換したこと,在地に新しい村落としての惣村が広範に形成されこれが武士の支配をゆり動かすまでの力をもつようになってきたことなど,当該期の社会的変動があった。また戦乱の拡大・激化に伴う多数の軍勢の移動と滞在は商業・交通の発展を促し,鎌倉後期より活発さを見せてきた商品流通を一層発達させた。このことにより各地に都市が勃興したが,公家政権の根拠地京都は政治の中心としてのみならず,全国的商品流通圏の中枢としても繁栄した。各地の産業の発展も著しく,機業・鍛冶・陶業・製紙・酒造など多種の製造業が本格的な成立を遂げた。たとえば,1376年(永和2・天授2)に大山崎の油商人のうち新加の神人だけで62人を数えたこと,応永の末年,洛中洛外に散在する酒屋敷が342軒に及んだということなどは,京都の商業都市としての繁栄ぶりをよく表している。

【文化・思想】南北朝時代の文化は動乱期の時代相を直接的に反映している。北畠親房が常陸の軍陣で著した『神皇正統記』は南朝の立場から皇位継承の正しいあり方を説き,一方『梅松論』は足利側に立ち武家政権成立の道すじを描く。これらは時代の大きな転換点において,歴史の動きを観望すべく比較的史実に基づいている点で一種の歴史書と見られる。中世の軍記物の最高傑作として名高い『太平記』は,南北朝動乱のおこりから細川頼之の管領就任までの歴史過程を格調高い文体で描く。『増鏡』は鎌倉期の公武関係を公家の立場より描いた歴史物語。それらに通ずる史観が南北朝の動乱という歴史的変革によってはぐくまれている点は注目に値しよう。以上のほか和歌では,南朝関係の人々がその張りつめた心情を詠みこんだ『新葉和歌集』(奈良親王撰)がひときわ光彩を放つ。宗教では鎌倉期以来の臨済宗が朝廷や幕府の絶大な援助を得て栄えた。臨済禅は幕府の宗教政策と深く関係し,宋の制度にならった五山十刹の制度に編成されることによって,幕府の保護と統制のもとに大きな文化的足跡を残した(五山文学)。中国に学んだ禅僧たちはまた水墨画や禅風の建築様式や造園技術などをも伝え,この時期禅宗が日本の文化に与えた影響は測りしれない。このような社会の上層部で高尚な禅文化が開花した一方では,動乱のなかでたくましく成長してきた農民たちの,いわば庶民文化が生まれたことも当該期の文化の特徴の一つである。連歌が各地を遍歴する連歌師を介して地方武士や庶民にも愛好されたほか,茶寄合や田楽・猿楽も民衆の間で盛んに行われた。庶民文化の開花は次の室町時代を待たねばならないが,南北朝時代の文化の庶民的性格はその萌芽と考えられること,それが社会階層の上から下までを巻きこんだ動乱のなかで形成されたことを銘記すべきであろう。〔参考文献〕中村直勝『吉野時代』日本新文化史7,1942,内外書籍

佐藤進一『南北朝の動乱』日本の歴史9,1965,中央公論社

森茂暁『南北朝期公武関係史の研究』1984,文献出版