●南北戦争 なんぼくせんそう
北アメリカ アメリカ合衆国 AD
普通アメリカでは Civil War と呼ばれるが,比較的最近まで南部人はこの表現を喜ばず,The War Between the States と呼んでいた。アメリカ史の分水嶺をなすような戦争で,その原因は非常に根深くまたその影響も深刻で,長い間アメリカ人の心のなかに残り続けた。【セクションの対立】独立まもないアメリカでは,19世紀に入って最初の約30年の間に,三つの異なった地域(Section)が別個に発展を遂げた。北部には産業革命が進展し,1830年ごろまでには初期の資本主義社会がすでに出来ていたが,南部はタバコ栽培から綿花栽培に中心が移動しながらも,大規模なプランテーション経営が盛んで黒人奴隷を労働力として使用していた。これに対して西部は,西部という概念自体が西へ向かってどんどん移動しながらも,北部とも南部とも違った独特の社会をつくりあげていた。フロンティア=スピリットがやがて国民性の一つと言われるほど,西部の存在は大きくなっていった。これら三つのセクションは,それぞれがみな相容れないほど違った特色をもっていて,三つの国として別個に発展しても不自然ではないほど際立っていた。これらの利害の対立は何度か政治的妥協を重ねながら衝突を回避していたが,そのような努力も限界が近づいて,1850年代を迎えることになった。
【新国家の誕生か】この対立のうちとくに目立ってきたのが北部と南部である。北部は,中央集権的で保護貿易を望み,商工業を中心として,奴隷制に反対した。南部は,地方分権的で自由貿易を望み,農業を中心として奴隷制度の拡大を狙っていた。事実南部の綿花はアメリカの輸出産業の第1位にあった。これらの対立のうちとくに激しさを加えたのは,奴隷制をめぐる賛否の議論で,1860年11月の大統領で共和党のリンカーン候補が当選すると,翌月まずサウスカロライナ州が声明を発してアメリカ合衆国から脱退した。共和党は奴隷制度不拡大をスローガンに1854年に結成されたばかりの新政党で,リンカーン候補は奴隷制度廃止を叫んでいなかったにもかかわらず,連邦脱退という異常事態が発生したのである。その後南部6州がこれに続き,リンカーンがまだ大統領に就任しない1861年2月,7州がアラバマ州モントゴメリーに集まって南部連合政府を発足させて憲法をつくり,大統領を選んだ。U.S.A.に対するこの C.S.A.はもしイギリスやフランスのような有力国家が独立を承認すれば,新しい国家としてひとり歩きすることになっただろう。しかしリンカーン大統領は連邦からの離脱を認めず,終始反乱としてこれを取り扱った。
【史上最大の内戦】1861年4月から空前の内戦に発展し,反乱軍はその後さらに南部4州が加わって合計11州となった。北部も南部も初めは短期間に戦争が終わるものと思っていたが,想像を絶した激しい長期戦となった。総合的な力では北部の方が勝っていたが,南軍には司令官となったロバート=リーをはじめとして優れた将兵が多く,初期の戦局ではむしろ南部が有利に展開した。しかし長期化すると北部の総合戦力がしだいに威力を発揮し,南部の奥深く進入した北軍のシャーマン将軍はついにアトランタを占領,さらに大西洋岸のサヴァンナも手に入れ,1865年4月リー将軍は北軍のグラント将軍に降伏して戦争は終わった。
【長く尾をひいた影響】リンカーンは1863年1月に奴隷解放宣言を公布し,さらに1864年11月にはゲティスバーグの戦場跡で〈人民の,人民による,人民のための政治〉という不朽の名演説を行って民主主義の意義を高めたが,戦後彼が暗殺されると世相は騒然となり,勝利者の北部が敗北者の南部を処罰するという傾向が濃厚となった。このため南部人の心は屈折し,劣等感と反抗心が交錯して解放された黒人たちに対する合法的差別が始まった。しかしこの戦争はアメリカ近代化のために避けることのできないものであった。
![]()