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●南部藩 なんぶはん

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 江戸時代,陸奥国において盛岡を中心に10郡を領有した外様藩。藩主は甲斐源氏の系譜をもつ鎌倉時代以来の豪族である南部氏。石高は10万石,のち1808年(文化5)20万石に加増された。盛岡藩ともいう。

【藩の成立】南部藩の成立は,南部信直が1590年(天正18)豊臣秀吉の小田原攻撃に参陣したことによって南部7郡が本領安堵されたことに始まる。翌年九戸政実の乱を鎮圧して和賀・稗貫・志和3郡が加増され,南部氏の藩領域が確定した。藩政初期の家臣団構成は,在地支配権の強い旧領主層を高禄で被官化した戦国大名型であった。藩主が利直にかわった寛永初期には,旧領主層のほとんどが整理されて一族・譜代中心の家臣団に再編成され,城下町は藩域の拡大に対応して,1633年(寛永10)三戸から盛岡に移り,家臣の城下町集住が進展した。初期の藩財政をみると,慶長・元和期に相次いで開発された白根厚朴(ほおのき)など良質の金山からの巨額の運上金収入は,年貢米収入をはるかに上回るものであった。1642年(寛永19)の全国的大飢饉においても餓死者なしを誇る豊さを誇っている。しかし金山は1660年代には衰退し,鉱山収入を中心とする藩財政は転換を余儀なくされた。藩主重直は「墨引追放」事件と呼ばれる42人に及ぶ譜代家臣を追放し,約5,500石もの地方知行地を没収した。それと併行して,積極的に江戸において現米給与の新参家臣を召し抱えた。彼らは重直側近の改革派グループを形成し譜代家臣と対立した。1664年(寛文4)重直の突然の死の結果,継嗣問題をめぐって家臣団の分裂は表面化し藩の存続が危まれた。結局,幕府の裁決によって,南部藩は8万石に減封となり,2万石を分かって新しく八戸藩を設立することとなって危機が救われた。

【藩政の展開】藩政中期・元禄期以降たびたび凶作・飢饉に襲われ,とくに1695年(元禄8),1755年(宝暦5),1783年(天明3),1833年(天保4),1866年(慶応2)は大凶作(4分の3以上の減作)による大飢饉として史上にその悲惨さを留めている。とくに南部藩は,水稲生産の北限地として不安定な生産力のもとにきびしい年貢収奪が行われ,民政には見るべきものがないと言われるほどであった。凶作の結果,武士階級も,藩財政の窮乏を救う手段として行われた給与の借上げによって,ますます知行地の農民への収奪を強め,その結果として知行地農民の知行武士への反抗,蔵入百姓への転換要求の一揆が頻発した。南部藩における百姓一揆は,近世を通じて(1869・明治2年まで)153件を超え,寛政期以降に急増している。それはロシアの南下に伴う北方警備のための松前出兵や,幕府からの度重なる手伝い普請のための財政負担を領民に転嫁したこと,さらに天保期以降は新税・増税反対の一揆が頻発,とくに弘化・嘉永の三閉伊一揆は,三浦命助らの指導者のもとで藩政に反対する組織的な大一揆に発展し,16,000人が仙台領に逃散をはかったりするなど政治的性格が著しかった。それに対応して1853年(嘉永6)藩側も政治改革を余儀なくされ,楢山佐渡,東中務らの若手家老を中心に人材登用策をとり,新渡戸伝・佐藤昌蔵・奈良宮司・大島高任・江幡五郎・村井京助らがその才能に応じ藩政や藩学において活躍した。また国産会所を設置して産業振興をはかり,さらに藩学校作人館を拡張して新しい学問や武術を奨励し,藩士の子弟の教育刷新をはかった。

【藩政の終局】大政奉還から王政復古の過程のなかで薩長中心の新政府が成立するや,盛岡藩は仙台・米沢藩などとともに奥羽越列藩同盟を結成し,奥羽鎮撫総督と対立した。政府軍の説得を受けて同盟を脱した秋田藩に対して,盛岡藩はその激しい論争を経て違約をせめ攻撃することに決したいわゆる「秋田戦争」が勃発。積極派の家老楢山佐渡を総大将に大館城にまで進入したが,同盟の総督府への降伏に応じて全面的に降伏し,盛岡開城の結果,引き渡した大砲は312門,小銃1万400挺という大量に及んだ。1868年(明治元)南部藩は13万石に減ぜられ白石に転封を命ぜられたが,翌年復帰,他藩にさきがけて版籍奉還(1870)し盛岡県さらに岩手県へと移行した。