50音順    検 索

●南都六宗 なんとろくしゅう

AD 

 奈良時代を最盛期として平城京中心に活動した六仏教宗派の総称名辞。天台・真言両宗の平安二宗に対する名辞で,三論宗成実宗法相宗倶舎宗・律宗・華厳宗の六宗によりなる。六宗は大陸・半島からもたらされた中国仏教の関係宗派を淵源として成立した。中国諸宗派の摂取・受容に際し,おもに宗義の解明のための研究を中心として臨む,宗派別の宗義研究学衆が各寺院内に編成された。三論衆などと呼ばれるのはもともとこれらの学衆の呼び名であるが,やがて宗学派そのものの呼称となった。各学衆はそれぞれ各寺院に分住して宗学の研究に従事し,また学衆個人は他の宗学を兼学したため,一寺一宗,一人専宗という宗学研究の形態をとることはなかった。

【南都六宗の成立】740年(天平12),良弁の求めにより華厳経を講じた審祥を初祖とする華厳宗,754年(天平勝宝6),カンシン※注1※(鑑真)・法進らによって伝えられた正規の律宗,この二宗が加わって南都六宗の形態が整い強化された。625年(推古天皇33)来日の慧潅を第1伝とし,718年(養老2)帰朝の道慈を第2伝とする三論宗天武天皇のころの百済の道蔵を第1祖とする寓宗成実宗。660年(斉明天皇6)帰朝した道昭を第1伝とし,703年(大宝3)入唐の智鳳らを第2伝とする法相宗道昭らによって同時に伝えられたといわれる寓宗倶舎宗天武天皇のころの道光によって伝えられた四分律宗。これら五宗学は奈良時代初頭期にはすでに存在し,とくに三論宗学が大安寺流と元興寺流に分派し,法相宗学は元興寺伝南寺伝)と興福寺伝北寺伝)の2系に大別され,多彩な研究活動を展開する状況になっていた。718年(養老2)10月の太政官布告はこの趨勢に対処して,多様な宗学活動を基本的宗学に律することを「五宗之学」基準に僧綱に指令したものである。747年(天平19)撰録の元興・大安・法隆3寺の資財帳を通じて,修多羅・三論・別三論・摂論・律・唯識の6衆教団名がみられ,『大日本古文書』にはこれらのほかに法相宗の学衆・薩婆多宗の学衆がみえ,通じて八学衆教団が存在したことになる。748年(天平20)以降,八学衆教団は異名同宗義が混在した法相・修多羅(成実)・三論・律・倶舎・薩婆多(倶舎)・成実の七宗に華厳宗を加えた八宗の宗名をもって現れるようになり,752年(天平勝宝4)の東大寺大仏開眼会のころまでに,華厳・法相・倶舎・三論・成実・律の六宗が定まり,ここに南都六宗は成立したのである。

【養老2年の太政官布告】718年(養老2)10月,僧綱に発布された学衆教団の再編成の推進と教学奨励に関する太政官布告である。5項からなり,第1は法門の師範僧の顕彰,第2は後学僧の先達僧に値いするものの名と臈年の申告,第3は五宗と三蔵の教学上の宗義に練達して宗師に価いする学僧の名と臈年の申告,第4は僧の機根に応じた仏行の奨励,第5は寺院定住による仏行従事の厳守と非法仏行僧に対する禁喩,これらを骨子とする僧綱の仏教行政推進の示達官告である。第1〜第3項は師範僧,先達僧,宗師僧を顕彰し,また衆僧中より簡抜して,身分階層別に教団内秩序を樹立すること,第4項は衆僧に対する能力別・自主的仏行従事の促進指令,第5項は仏法にかなった寺院本拠の宗学活動を,各教団内秩序の再編成にもとづいて推進することをその内容とする。この官告によりて神叡・道慈の2僧が「釈門之秀」(法門の師範僧)として顕彰されたらしいこと,また720年(養老4)に師位僧・受戒僧(比丘)・得度僧(沙弥)の3階層の身分制が制定され,学業本位の試業得度制がこれに伴って適用され,722年(養老6)に僧綱機能の強化策が実施されたことなどは,718年の官告に沿う直接的な教団再編成と学業推進とを連関させてつくられた施策であるのでたがいに関係がある。とくに官告が明示した「五宗之学」は,すでに官告発布の段階で伝来している三論系・成実系・法相系・倶舎系・律系の五宗学であるから,この五宗学はいずれもこの施策によって教学活動を推進した。733年(天平5)の正規の戒律師の唐からの招請計画の実行,翌年の試業基準の明確化などである。その諸活動の前後には留学僧の帰朝と大陸半島の学僧の渡来,「開元釈教録」などの将来と写経事業の盛行による経典の増加と整備などがあった。そうした状況のもと,教学活動は活発に行われ,各学衆ともに多くの学僧を輩出した。

【学衆の組織・研究所】東大寺では,各宗義の学衆は共通してそれぞれ大学頭・小学頭・維那の3役僧を置き宗義研究の管理機関とした。大学頭は学衆の最高機関で学徳最高僧がこれにあたり,学衆指導の最高責任機関でもあった。小学頭は大学頭の補助機関であり,大学頭に次ぐ学徳僧がこれにあたった。維那は宗学教団の庶務機関であり,庶務能力の優れたものがこの職についた。この組織は六宗の成立期に最も明確化する。718年の官告にもとづいて導出された各学衆の宗学組織のあり方を物語るものである。この学衆組織のもとで各学衆は教団内の「〜宗所」と呼ばれる研究所で宗学の研究に励んだ。六宗はともに宗名を冠記した宗所を設けており,各宗所には該宗義に関係する経典を備えて学衆の宗義研究に資した。

【律令国家と南都六宗】奈良時代は律令体制の展開期であり,盛唐文化の影響下にあった。美術史でいう天平時代である。隋・唐両朝下で盛期を迎えた中国仏教の摂取・受容によって諸宗派がもたらされ,南都六宗の宗派的淵源となったが,「僧尼令」を準拠として官僧は必ず寺院に定住して仏教活動に従事しなければならないことと,寺院外で自由に布教することが厳重に禁制されたことなどにより,寺院教団中心の教学は大いにすすみ,南都六宗は学問仏教として多くの成果を生んだ。しかしその反面,この成果を宗教機能として一般社会に及ぼすことは,道昭・行基の社会事業従事のほかは全くなく,かえって多くの弊害と変容を伴出して,平安仏教をかもし出すことになったのである。

〔参考文献〕『奈良時代文化雑攷』石田茂作「奈良時代の宗派組織概観」1944,創元社

井上光貞「南都六宗の成立」日本歴史156

井上光貞「東域伝灯目録より観たる奈良時代僧侶の学問」史学雑誌57−3・4

00