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●南島の民俗芸能 なんとうのみんぞくげいのう

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 鹿児島県の奄美諸島,および沖縄県一帯の民俗芸能。日本の芸能大系とは異なる芸能が伝承される。それはかの地の根底に,台湾からポリネシアに連なる太平洋の島々が,共通してもつ文化があること,長年にわたり中国文化の影響を受けたことなどによるためで,そこに本土からの文化が習合し,独自の芸能文化を生み育てたということができる。

【民俗芸能】南島の民俗芸能を本田安次は,[1]自然発生的な南島独自の芸能,[2]中世後期から近世にかけて,本土から渡った諸芸能が,南島化したもの,[3]宮廷舞踊,に分けている。[1]はウタキ(御嶽)に降臨する神を祀るノロを中心とした祭りに行われる神遊びで,16世紀から17世紀にかけて,琉球王府が集成した叙事歌謡集である『おもろさうし』に収録されたような,神語りを唱えつつ執行される。芸能というより,一種の神事であるが,広い意味での芸能的要素が強い。伊江島の祝女の祭式舞踊として演じられる“七つの御手”,12年ごとの午年に久高島で執行される神女洗礼の儀式である“イザイホー”,奄美大島秋名で,海の彼方から神を招く儀式として行われる“平瀬まんかい”などいずれの祭りにも,乱舞型式の南島独特の踊りがみられる。またこの乱舞型式の自由な振りの踊りは,八重山諸島の“うちはれの遊び”や,与論島の祭りの最初に踊られた裸体の男女の踊り,沖縄本島北部の“海神祭(うんじゃみ)”“シヌグ”,沖縄本島の野遊(もうあし)び,宮古島のクィチャー踊,八重山諸島の巻踊,夜遊びなどや,奄美諸島の八月踊にもみられるものである。[2]は沖縄の京太郎(ちょんだらあ)と呼ばれる1人遣いの人形回しや,島指舞,升斗舞,駒舞などの門付系芸能にその面影を残すが,女性だけの踊りで,小型の太鼓を手にもって踊る“ウシデーク”,青年たちが手にした小太鼓を打ちつつ,「エイサー」の掛声で,歌をうたいつつ盆に踊り歩く“エイサー”などがこれにあたる。加計呂麻島に残る諸鈍芝居や,与論島で旧暦8月15日に行われる十五夜踊りは,江戸時代初期の日本で流行をみた風流踊りとその間狂言が移入され,南島風になったものである。また奄美諸島で旧暦8月に行われる八月踊や浜踊は,家々の庭や広場では輪踊りとなるが,本来行進形の乱舞で,歌も男女の掛合いでバラッドがうたわれるなど,日本の行進形盆踊と共通の要素をもつ。[3]は18世紀初頭の日本の歌舞伎舞踊が,沖縄風に洗練されたもので,伴奏に琉歌を用いる。それらの踊りを“端踊(はおどり)”と称するのに対し,日本の能を沖縄風にアレンジしたのが“組踊”で,1718年(享保3)に,当時の踊奉行玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)によって“執心鐘入”“二童敵討”など5曲が創作されたのをはじめ,多くの曲が生まれた。これらの端踊や組踊は,本来少年によって,琉球王の即位式に中国より派遣された冊封使の接待に演じられたもので,“御冠船(おかんせん)踊”と称する。伴奏には大小の太鼓,三線(さんしん),琴,笛,胡弓などが用いられる。接待の終了後,按司(あじ)奉行の邸内などで,一般にも公開したため,沖縄の島々にも伝播。民謡なども取り入れて,祭礼芸能ともなった。明治以降,民謡に振りを付けた“雑踊”もでき,沖縄独特の琉球舞踊となった。

【南島の音楽】南島には日本とは系譜を異にする音階がある。沖縄諸島と奄美諸島南部にのみあるもので“琉球音階”の名がある。沖縄では14世紀ごろ,中国より三線が渡来,15世紀に王府の中央集権が確立すると,日本文化の影響を受けて8・8・8・6の韻律をもつ“琉歌”が成立。以後この歌は宮廷において芸術音楽として伝承された。“御冠船踊”などに用いられる歌である。この琉歌は民謡にも大きな影響を与えている。民俗芸能でうたわれる歌の大半は,この影響下にある。しかし純粋の労作歌や,宮古諸島のシアヤグン,八重山諸島の作業歌やバラードには,琉歌型式の韻律をもたないものもある。沖縄独自の楽具として三線,三板(さんぱん),指笛などがある。明・清楽や,チャルメラ系の哨吶(つおな)なども一部には取り入れられている。

〔参考文献〕本田安次『南島採訪記』1962,明善堂書店

三隅治雄『沖縄の芸能』1969,邦楽と舞踊社