●南朝(吉野朝) なんちょう
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後醍醐天皇は1336年(延元1)12月,吉野行宮に潜幸し,京都回復,足利尊氏追罰の勅書を全国の官軍に下し,京都において持明院統を天皇として奉ずる足利氏と対峙し,天下の政権は二分の形勢となった。世に京都の朝廷を北朝,吉野の朝廷を南朝と呼んでいる。吉野の朝廷はこれより後村上,長慶,後亀山の3代57年続き,1392年(元中9)の南北朝合体により終わった。ただし北朝は自ら「当朝」と称するとともに吉野の朝廷を「南朝」あるいは「南方」と呼んだのに対し,吉野の朝廷は天皇号を復活して天皇親政を行い,京都の朝廷を「偽朝」と呼んで全く認めなかった。また現実に北朝の天皇は足利氏に擁せられる形式的存在で,足利氏の便宜に従って廃立され,吉野の天皇とは全く性格を異にした。南北朝の争いは「宮方」と「武家方」の争いといわれ,吉野の朝廷は唯一絶対の天皇としての堅い信念のもとに北朝の解消,足利氏の帰順を条件としない限り和平の交渉に応じなかった。