50音順    検 索

●南詔 なんしょう

AD649 

 649〜902 中国,唐代に雲南地方におこったチベット=ビルマ族の王国。四川西南部から雲南方面に南下してきたチベット=ビルマ系の烏蛮種は,唐初には大理盆地に達し,モウズイ※注1※詔・越析詔・施浪詔・浪穹詔・トウ※注2※セン※注3※詔・蒙舎詔の6詔国を形成した。詔とは王の意,蒙舎詔は最も南に位置したので南詔と呼ばれた。唐初,南詔の細奴羅(シヌラ)は大蒙国を号して入朝し,高宗の雲南経営に協力して勢力を伸長。8世紀半ばの4代皮羅閣(ヒラコー)のとき,他の5詔国を統一し兵を進めて先住白蛮種を破り,雲南を平定して都を大理に置いた。ついで南進する吐蕃を撃破し,諸蛮を討って強大な南詔王国を現出させるが,唐とのあいだに不和を生じ,閣羅風の代には唐から離反。安史の乱により唐の雲南経営が頓挫すると,その混乱に乗じて南詔は四川を侵すにいたった。779年,閣羅鳳の後を継いで6代異牟尋が王位に即くと,ここに南詔は最盛期をむかえる。異牟尋は即位当初,閣羅鳳以来臣付した吐蕃と結び吐蕃より日東王に封ぜられたが,しかし吐蕃の専横が強まると,漢人鄭回の言を容れ,794年(貞元10)には唐に帰順。その後,施蛮,順蛮,磨些蛮,茫蛮の諸蛮を攻め,次々にこれを破って雲南東北部まで版図を広げた。9世紀以降,唐と吐蕃が国力を衰退させるなか,南詔は西は上ビルマ地方,南は交州北辺,北は四川南境へと進出。829年には大挙四川に侵入して,成都府をも占拠した。さらに11代世隆が大礼国皇帝を称して立つと,交州の安南都護府を攻略(860)。以後,唐と南詔とのあいだに交州・四川争奪戦が繰りひろげられた。875年(乾符2),黄巣の乱勃発により大混乱に陥った唐は,四川防衛に高ベン※注4※を登用。高ベン※注4※は和戦両様の構えで南詔に対し,883年(中和3),安化長公主を南詔に降嫁させることで和議が成立した。しかしこのころ南詔国内では権臣が王権を凌駕するにいたり,902年,漢人鄭買嗣の簒奪にあって南詔は滅んだ。

00

01