●南京事件 ナンキンじけん
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中国の江蘇省南京を舞台にしておきた異なる三つの事件の総称。1913年(維新7),1927年(保大2),1937年(保大12)の三つであるが,いずれも大陸進出を企てる日本との政治的因果関係を強くにじませている。[1]辛亥革命の翌1912年には,孫文を臨時大総統として,南京に国民党政府(中華民国)が樹立され清朝の滅亡をみたが,孫文に代わり正式大総統に就任した袁世凱が独裁化して国民党弾圧に乗り出すと,1913年7月,第2革命が勃発した。戦闘は国民党側の革命勢力に終始不利であり,9月には張勲の北京軍が南京を奪取した。その際,日本人3人が中国の軍隊(北京軍)に惨殺され,また在留邦人の家屋が掠奪を受けるという事件がおきた(第1の南京事件)。袞州,漢口などでも類似の事件がおき,日本国内でも中国出兵を要求する世論が高まり,山本内閣は強硬策に出て陸戦隊を上陸させ示威を与えた。その背景には,袁政権下で進行した列強の中国進出による既得権の喪失を恐れた日本のあせりもあったと思われる。結局,外交交渉により中国側が譲歩をみせ事件は一応の解決をみた。[2]国共合作(第1次)による広東政府は1926年7月北伐を開始,国民政府軍と中共党員の積極的な行動により北伐は急速に進展し,同年12月には首都も広東から武漢へ移された。翌年3月北伐軍は上海を占領,南京も占領した。上海では中共党員の指導による労働者の武装蜂起がおきるなど一帯に騒乱が生じた。とくに国民革命軍が南京占領のとき,一部軍隊が外国領事館を襲撃し,掠奪殺害を行ったことから,英米の軍艦が威嚇砲撃を実施するという事件がおきた(第2の南京事件)。日本の被害は死者3,領事館も掠奪を受け,領事館の武官が責任を負って自殺するという騒ぎにまでなった。しかし協調外交路線を主張する幣原外相は,再三にわたるイギリスの共同出兵の要請や軍部の動きを退け,静観を決めこんだ。反共右派勢力のボスとなった蒋介石は,この事件を蒋と列強との関係を悪化させようとする共産党の陰謀であると発表し,列強の支持のもとに翌4月,上海,南京その他の地方で共産党弾圧のクーデタを行い(四・一二クーデタ),対外協調方針をとって事件の解決につとめた。日本では,幣原の“軟弱外交”に対する攻撃で若槻内閣が倒れ,代わって積極外交を説く田中義一内閣が生まれ,1929年(保大4)5月になり解決をみた。[3]日中戦争において日本軍は1937年(昭和12)12月,当時の中華民国の首都南京を占領したが,その際日本軍が行ったとされる大規模な虐殺掠奪事件。伝聞にもとづくエドガー=スノーやティンパーレーらのセンセーショナルな報道が当時の世界を驚かせ,“南京虐殺”“南京大虐殺”として印象されるようになった。当時の南京では蒋介石が国民政府を構えていたが,同年7月の日華事変(蘆溝橋事件)で南京が陥落する際,蒋の国民政府は南京を放棄して漢口へ逃げのびていた。入城した日本軍は5個師団,兵数約5〜7万と推定され,南京市の総人口は不明なものの,日本軍入城時に残されたのは,国民政府の守備隊約15万と下層難民約25〜40万のみであったと推定される。東京裁判記録によると,日本軍による虐殺は捕虜・一般市民を問わない残虐なもので,捕虜の皆殺し,婦人への強姦,一般市民への掠奪,民家への放火があったとされ,紅卍字会など二つの慈善団体が埋葬した死体だけでも総計15万に達し,犠牲者の総数は30万以上あったと推定されている。極東軍事裁判では,事件当時の総司令官であった松井石根大将が責任を問われ死刑に処せられ,第6師団長ら数人と南京の法廷で死刑に処せられた。近年,教科書検定をめぐりジャーナリズム内外の対立する陣営の思惑を反映した論争が活発である。また学者のあいだでは,南京事件調査研究会が結成され,中国へ調査団も派遣された。〔参考文献〕E. Snow,森巌訳『アジアの戦争』1956
姫田光義『証言・南京大虐殺』1984