●南京 ナンキン
アジア 中華人民共和国 AD
現在は人口200万を擁する江蘇省の省都として,北京,上海,天津と並ぶ中央直轄の大都市であるが,歴代の王朝が都をおいた古都でもある。海口から約300km入った長江を臨んだ台地上に位置し,北は幕府山,東は紫金山(鍾山),西は清涼山に囲まれた盆地内にある都市である。また北の玄武湖,南の秦淮河とに囲まれた景観はきわめて美しく,華北の黄土上にある長安や蟠陽の都よりも,日本の奈良,京都の古都のイメージに近い。三国時代の諸葛亮が南京の地勢を「鍾山に龍幡し,石城(清涼山)に虎踞る」と表現しているように,長江の水面にそそり立つ天然の要塞は,歴代軍事上の拠点ないしは政治的中心地として選ばれた。春秋時代の呉国が冶城をおいたのに始まり,戦国時代末には楚の威王が清涼山付近に金陵邑を築き,秦漢時代には丹陽郡秣陵県が置かれた。南京が重要な政治的都市として注目されてくるのは,漢人の南下によって背後にひかえた江南デルタ地帯の開拓が進む,魏晋南北朝時代である。三国呉の孫権は,水軍の要塞として石頭城(遺跡がある)を築き,229年,武昌から都を遷して建業と称したが,以後東晋と宋,斉,梁,陳の南朝が建康と改称して都に定めた。北方の五胡諸民族が華北の洛陽,長安などの伝統の地に都を置いたのに対し,漢人の王朝は新たに南京の地を選んだ。江南の地域は,これまでも太湖東部(浙西)や会稽(浙東)の地に漢代以来の土着の漢人豪族が勢力をもっていたが,華北から南遷した新来の豪族は,太湖周辺を開拓するとともに,南京を拠点とした門閥貴族政権をたてたのである。これ以降,太湖東の呉(現蘇州)に代わって,南京が江南の中心として発展していく。現在,南京北西の太平門外の甘家巷付近には,六朝時代の陵墓が残されている。梁の宗室蕭氏一族の墓域内にある蕭秀墓や蕭景墓には,南朝特有の墓葬形式をうかがうことができる。すなわち秦漢時代の陵墓のように巨大な墳丘は築かず,山腹に陵墓を構築し,山川の地勢に従って陵前に長い神道(参道)を開き,その左右に石獣(麒麟,辟邪),石柱,石碑を並べた。また唐の杜牧が,「千里鶯啼いて緑紅に映ず,水村山郭酒旗の風,南朝四百八十寺,多少の楼台煙雨のなか」と歌った南朝貴族仏教の隆盛は,郊外の霊谷寺や棲霞寺などの仏閣によってその面影をうかがうことができる。その後,隋唐統一王朝が崩壊した五代十国の分裂時代にも,ここを都(江寧)とする南唐王朝(937〜975)が,江南の豊かな経済力を背景に比較的安定した地方政権を樹立した。近年,南郊の祖堂山麓において初代・2代皇帝のリベン※注1※・ケイ※注2※父子の陵墓が発掘されている。一時期にせよ南京が初めて統一王朝の都となったのは,明の時代である。南京を根拠地にして元朝を破った明の太祖朱元璋(紫金山の孝陵に埋葬)は,1368年,都を南京(応天府)に定め,2代成祖永楽帝が1420年,北方防衛の拠点北京(順天府)に遷都するまで,政治の中心となった。当時の経済的先進地帯であった江南の地に,政治的中心もおかれたのである。南京の名称も,北京に対応する意味で,この時代に生まれた。1840年のアヘン戦争以来,中国は列強諸国の侵略によって半植民地への道を歩むが,侵略の中心となった沿江諸地域に位置する南京も,これまでの古都のイメージとは別に,近現代史の舞台として重要な役割を果たす。1856年,アロー号戦争を契機に英仏軍は広州を占領して天津に迫り,1858年に天津条約,1860年に北京条約を結んだ。このとき南京も,長江流域の鎮江,九江,漢口とともに開港させられた。一方,列強の侵略に大きな不満をもつ広西省の民衆は,1851年,太平天国をたて,やがて1853年,北上して南京に都(天京)を置いた。まさに南京は内外の諸矛盾を抱えこんだ都市となるとともに,中国近現代史の発展の一根拠地ともなったのである。1911年,辛亥革命がおこると,翌年孫文(紫金山麓の中山陵に埋葬)は南京で臨時大総統に就任し,ここを中華民国の首都とした。その後,蒋介石の国民党政府もここに根拠地をおいた。1937年,日中戦争が始まると,同年12月から翌年2月にかけて,日本軍が南京に侵入し,多くの中国人に暴行・殺戮を加えたといわれる。このいわゆる南京虐殺事件は近年その真相がしだいに明らかになりつつある。この事件によって,美しい古都南京の歴史に大きな汚点を残してしまったわれわれの責任は,十分認識し反省する必要があろう。
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