●生業 なりわい
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すぎわい,なりわい,なりはひといってもいる。これは身すぎ,世すぎのための仕事,働き,生きるための手立て,作業,などの生業である。生きぬくための生産労働はもちろんのこと,今日では商いのような行為のように生産とかかわらぬ流通過程での仕事すぎわいのごときものも,なりわいのうちに入る。しかしもとの意味は『広辞苑』によると「[1]五穀がなるように努めるわざ。豊作。生産の業また,その作物をいい,「崇神紀」には〈農(なりわい)は天下の大きなる本なり〉とあり,万葉集18巻には〈作りたるそのなりわいを〉」とある。したがって生産の業である。「[2]世わたりの仕事,すぎわい,よすぎ。なり。家業をあらわす」とある。こうみてくると,なりわいとすぎわいとは必ずしも同じことではなく,初めは異なったものであった。そして「生業木(なりわいぎ)は小正月の飾物の木,稲穂,繭玉,果実などを表すもので木の枝につけて屋内に飾ること(北陸地方)」。とある。その他にも,餅木,木団子,繭玉,餅手鞠,餅花をさす。この点は『日本国語辞典』(小学館昭和50)も同じである。[1]に該当するところで,『日本霊異記』下130の〈俗に著(つ)きてきて営農(ナリハジ)妻子を蓄へ養ふ〉を引いて,営農の意であることを明らかにし,[2]は「家業・世業・世わたりの仕事」とのべている。産業(なりはひ)と読ませ,生活(なりはひ)と読ませる例さえあげることができる。語源説としてナリは五穀のナリ(生)出る義とし,ハヒは状態をさす助辞「わざわい」の「わい」と同じく接尾語で,事,しわざの意,したがって穀物などを実らせる業,農作が原義。古くは農業が基幹産業であったことから広く生計の道,生業,職業へと発展した。そのためか「我孫子の生業」(我孫子市史研究センター『郷土あびこ』崙書房 1982)には,農業と深くつながる面や,沼・川べりの生業が強調されている。しかしその内容は町場化していることもあって,旅館・弁当屋・撮影所・茶屋・油屋・本屋・よろず屋・呉服屋・魚屋・うなぎ屋・菓子屋・飴屋・卵屋・瀬戸物屋・穀屋のごとき近世でいえば「農間渡世」のごときものを含めたものが並べられている。このように考えると生業の変化のあとを辿ることなしに,生業の分類はできない。それほどまた生業概念の内包するものが変化している。もともと日本における農業は皇祖の天神や御年皇神などが,天皇に「よさし」たもうたものであり,天皇はさらにこれを農民「よさし」たもうたものであり,それゆえに農業は,天皇の大御業であり,神々の業である。したがって農民にとって農業は自分自身の私の仕事ではなく,神聖なる神の御業に参加することでさえある。それゆえいたさねばならぬ使命,任務であり,したがって単なる職業でない。かえることのできない生業であった。稲荷神とは本来文字通り稲を荷う神であった。それゆえ「丑さま祭り」の儀礼をみると,そのことを神祭りとしてそのままあらわしている。いずれにせよ,農民はその農耕の業という神の御業に参加していると考えている。まさに農業とは神と人と一体になってなすわざである。
およそ生けるものが,真実なものとして現成しなければならないものがなりわいである。各々伝来している家業は私の家業ではなく,朝廷(天皇)より預り奉る家業である。その貢税はその預り料として稲穀をもって出した。稲穀は天下蒼生のただ生きるための糧であり,まさに生産即実相の世界をつくり出すものであった。本来の生業は,こうした精神を秘めたものであった。その点からすると,いわゆる職業,いかなるものをやってもよいという自由の上に成り立つ職業とは異なったところに成り立つものであった。
【なりわいの種類】一家の生業を考えるとき,生業は乞食を含めた採集,狩猟,漁労,農耕など食糧確保の手段および種々の生産用具を製作する方策である。そう考えると[1]自然物採集[2]農耕[3]山樵[4]採鉱,冶金[5]漁労[6]製塩[7]狩猟[8]養蚕[9]畜産[10]染,織[11]手工業[12]諸職を含むものとなる。さらに山樵のなかには杣・木挽・炭焼も入る。諸職とは,大工・石工・左官・鍛冶屋・井戸掘・げた屋・桶屋などをさす。自然物の採集については植物・岩石・鉱物のごときものまで含んでおり,その利用の仕方も異なる。したがって生業と生産とは区別する必要がある。
かつて存在していた焼畑耕作のような方法は,各民族共通の発展段階として指摘することも可能である。起耕法や農耕道具もしだいに変化している。それゆえに道具の変化と耕作の深浅のかかわりは強い。なりわいには技術の進歩および生産体系をふまえた自然の制約に対する創意と工夫がこらされている。またかつては,生業は専業形態をとらず,時代と場所に即して,あるいは家によって違いがあった。これも自然物採集に負うところが大きく,狩・漁などが,農耕によりかかっていたためである。分業が確立するような経済状態でなかったことも大きい。
【生業と年中行事】生業を考えるとき,民俗のなかでの生業の位置づけは大変である。たとえば小正月の成木責(なりきぜめ)において「成るか成らぬか」といって,鉈をもって柿の木の幹に傷をつけると,精霊役が「成ります」という一つの儀礼がある。こうした事例は成木責めだけでなく嫁打棒でお嫁さんの尻を叩くまねをするという事例などは予祝の行事とどこかでつらなり,豊穣を祈るもので生業の構造とかかわるところが多い。そのほかに来訪神というのがある。南九州の石の田の神様は必ずメシゲという御飯をつけるしゃもじをもっている。小正月には諸道具の一つの物作りにもこうした儀礼がある。生業とは必ずしも稲作でなく,畑作中心の地域もある。焼畑耕作のところもある。そうしたところでは稲作地帯とは異なる民俗行事をもっている。生業には狩猟の世界も入る。漁労の世界にもある。まだ専業が成り立つための交易の世界が十分に発展していなかったことによる。
【共同体的扶助】日本のムラの組織単位として家が一つの生活共同体を構成している。そのムラの家々は,また地縁共同体をつくり,血縁・婚姻・地縁関係をもちながら,相互扶助をしてくらしをたてている。この慣行なしにはくらしは成りたたない。それとかかわってムラの仕事(公)を私の家の仕事と区別し,公役,公事,地下夫,辻仕事,総普請,ニンタイガカリ,ヤガケブシンといって分担している。それには(a)モヤイ系(共同労働)(b)テツダイ,カセイ,コウロク,ヤトイスケ系(片務的労働)(c)テマガエ,ユイ系(交換労働)の三つによって構成されている。(a)には狩猟,焼畑耕作,水田造成,(b)のなかにはトウハイ(同輩)とか同姓集団のものミウチ(親族)や若者的関係のものが入っている。(c)には農業関係では(1)耕種・苗代の整地・施肥・苗代・苗取・田打・代掻・田植・田草取・稲刈・脱穀調整・麦播・麦刈・麦脱穀・調整・畑中耕除草・茶摘・果実収穫・肥料運搬・畑打など。(2)養蚕・桑摘・上簇・藺かきなど。(3)養蚕・株刈・厩肥搬出など,(4)加工・製茶・楮むき・麻製造・柿むき・縄ない,(5)その他開墾・耕地整理・土地改良・池設・薪伐・炭焼など。農業外では家の新築・普譜・屋根葺・味噌炊・除雪・餅つき・機織・栽植・按摩・灸・髪結・冠婚葬祭の手伝などをお互いにつとめねばならなかった。その点諸職すなわち職人の世界は独立性がつよい。
【諸職の世界】大工・左官・屋根屋のようなものから,木地師・曲物師・桶屋のごときもの,たたら・鋳物師・鍛冶屋・陶滋器製作者を含み込んでいる。その他に漆工・紙漉・傘屋・ちょうちん屋の様な諸職,とくに居職のごときものが多い。そのほかに出職としての杜氏師,屋根葺のごとく農閑期を利用して出かけるものがある。こうした人を含む職人の世界は,信奉する神も職業神である。またいでたちや道具入れの形も特色をもっている。その面で独立したものであったから,仕事と家の永結の願望は別として,職種ごとの連帯感は強力で,地域ごとに親分・子分関係が成り立っていて農民たちが主としてつくっている共同体よりは独立していた。だだ蕎作の作業のごときは,農民の農閑渡世で,これはあまり独立性をもつ職人に発展していない。
【行商と販女】なりわいの手段たる生業には差があり,かつ生業に関する資材・用具や消費生活のために「糧」を得ようとすると,交通の機能を一層高める必要があった。一番古い形は物々交換でそのなかには無言交易もあった。何れも売り捌くより有無を通じさせることが先であった。次にそれを売り捌くという順序になった。その中には野菜・塩物・箕・飴等のようなものをふり売りして歩くことが多くなり,棒手振り商人とか,干物用の竹竿商人など,独特の声色をつかって,呼び売りをして歩いた。行商の多くは,いつも一定の地域内を時季に応じて売り歩くので,お互い顔見知りの場合も多い。売れのこると半強制的にものをおいていく場合もあり,即金ではらうのでなく一括して支払い勘定するシステムがつくられている。そのなかには富山の売薬商人のようなもの,それに類似する大和・江州・烏栖・伊賀のような薬売り,さらに越後の毒消し売りのようなものがある。これは富山のように,自ら薬を調合し,懸場帳を手にして全国へ置き売りして歩く,信用取引販売を基礎にし,手土産を用意しながら売るものが少なくない。こうした行商圏は地域割りがしてあり,懸場が権利となって,株のごとく取り引きがされる仕組みにさえなっていた。また販女については,〈漁夫のとった魚をその妻が売り歩いて朝夕の炊ぎの糧の穀物とかえことをするというのはまことに自然のことで,久しい年代の間津々浦々の民家の煙はこうした夫婦の漁のあきないを兼ねた働きによってたちのぼっていたのである〉(瀬川清子『販女』)。かかるカエコトを起点として生業があった。その他にも漁民と山窩,マタギ,木地師などとの必要欠くべからざるカエコトは,分業でくらしを成り立たせる方法であった。それができないときには農家に労働力を提供してくらしを成り立たせている。このような漁村の女たちによる漁獲物と穀物などとのカエコトが,やがて商品流通網をつくりあげ,そのコンビネーションを複雑化し,流通過程にいろいろな取り引きをする商人を介在させることによって販売網を整備して来たのである。販女は頭上運搬をその特色としている。それをイタダキ・ササゲ・カベリと呼んでいる。古い時代はこれがあたりまえであった。これは神祭りに捧げいただく心意をあらわしたものとの考えもある。それがやがて背負い運搬へとかわっていく。しかしこれとても「頭上運搬から肩担ぎにかわったのか」とたずねると,「初めから肩担ぎ,背負いが多い」との答えもかえってくる。もちろん,もとはカエコトとして出発したものであるが,しだいにその方法も変わって来ている。女の行商は魚・山菜・薪・浜草・柴・あわび・ほや・海藻・干物・すじこ・鮮魚・川魚・しじみ・にしん・小間物・花・わかめ・こんぶ・ひじき,するめ・いわし・のり・かきなどをあげることができる。種類が多いのは以上よりみても明確である。分類すると(1)海産物(2)山の産物(3)その他小間物・薬・花など。また搬法(女の行商)としては[1]頭上運搬[2]背負運搬・肩担運搬,などで東北に背負運搬がのこり,それが西へ移るにしたがって背負にくらべて肩担運搬が多い。そして全国的に行商は行われている。近年道路の整備,自動車の普及につれて,男があきないをするようになってきた。ただ馬稼ぎ・牛稼ぎのような長距離の行商は昔から男かせぎであった。
【河川の船頭と筏師】河川舟運に従事した生業者たちは河川舟運稼ぎで生業を成り立たせて来た。川船製作の船大工がおり,そのつくった川船は水量にあわせて積荷の工夫をして荷物輸送に役立った。水量の測定は船頭の勘であり,水探は船差役がそれを毎日はかっている。山村や河川沿岸の人たちが船頭や筏師となった。河川交通の場合は風の利用と船の曳き方がむずかしい。瀬や渕への対処などが大変であった。河川水運の稼動を底辺においてささえたものが,綱曳き船頭である。曳綱をもってひっぱらねばならない。船頭でもノリダレ船頭になるのは,川のクセをよく知ったものでなければならない。筏流しでも筏の種類,組み方,流し方,川狩などをよく知っている必要がある。筏をくむためには1人の筏師に4〜5人のカヅラダテがいることが必要である。筏師を筏船頭という。その仲間では一番わりがよいことになっている。川船にもいろいろの種類があり,川毎にその名称も異なっている。これも水系ごとに文化的伝統がことなり,生業圏を異にしていることを示すものと考えられる。
【鋳物師の世界】柳田国男は漂泊の鋳物師の存在を炭焼き五郎伝説との結びつきで考えた。諸国を往来する「自由な旅人」に鋳物師の世界があると考え,金屋村文書にはイカケ屋の天神様として広く鋳物師のあいだに流布した文書がある。その多くは蔵人所牒,将軍家下文,関東下知状のごときものが多い。しかし,よく立ち入ってその文書を分析すると偽文書が多い。また『鋳物師由緒書』の類も,どうも偽文書が多い。その上偽文書のもち主は,鋳物師のみでなく,桂女の由緒書も能地漁民の『浮鯛系図』も,いわゆる河原巻物もいずれも偽文書の場合が多いことを否定できない。そうしたものがすべて天皇家とのかかわりを求めた偽文書である。しかもそれが畿内とくに和泉・河内に関連をもたせている。なぜそうしたことがあるのかというと,自由な旅人の保障者が天皇でなければ,世に通用しなかったことによっている。とかく天皇制を農業とのみつながると考えがちだが。実は全くそうではないのではないかと考えられるようになった。『石山寺縁起絵巻』7巻(石山寺蔵)をみると,近江国石山寺の草創の経緯と各種霊験譚を描いてある。そこに石山寺建立の大工や普譜人夫たち,鋳物師たちの姿がみえる。また供御人の経済活動も盛んになるが,彼らも偽文書をもつものが多い。そうした人々も廻船と漁業とつながりをもっている。
【原始農耕】古い時代には農業といえるかどうかわからない自然物採集経済ともいうべき時代があり,植物の栽培農業でなく,原始陸耕の時代であった。どんぐり,しだみの系統のものや,わらびの根をたべている。北上山地の奥では,稗などをともにたべている地帯で,自給自足的自然経済地帯であった。また遠山谷の下栗も,栗の木が多くあるので人がすみついたとある。古い目本では里芋・山芋があって,これが糧になったこともある。また“やき”とか“やけ”(焼・宅・明矢ケ・屋慶)という焼畑にちなむ地名がある。“やきかの”なども焼畑を意味する。これは江戸時代の半ばごろまでかなり行われている。ところによっては“やく”といって野焼・焼畑を意味するところもある。低温地の場合は水芋を栽培し,それをしだいに開田事業に転化している。その証に琵琶湖の内湖(大中之湖)の周辺部にそうしたもののあとが見られ,農具としての木器が発見される。また山中には木場とか木場切という地名がある。
【生業と漁業】「よし」は美称でとくに良し悪しがあるわけではなく,好字である吉・芳・良・好・善・葭・賀・芦を使用した。葦が生えているところは「悪し」に通ずることから湿地が多い地名をヨシの地と呼んだ。ここは陸化する地である。漁法としてはヨシマキ網を用いている。もう一つにエリ※注1※という漁法がある。ヨシエリ※注1※などの方法があり,こうしたところでは半農半漁であった。当時は豊凶は平均せずいろいろとうき沈みがあったから大変であった。それは畦畔が安定せず,水路がきちんとできていなかったからで,いまの東南アジアのごとき状況であり,そのため稲作漁労民が多く存在した。生業として日本漁業の特色の一つに鵜飼がある。これは鵜を使って魚をとる。人間がとるというより鵜がとるのであるが。鵜飼で鵜匠が多くの鵜をつかうのは技術,手練がいる。しかし,むかしの鵜飼に鵜を使って魚だけをとるのでなく鴨もとる鮭・鱒もとるのであって,漁も狩も未分化であった。トリモチをつけて漁をすることさえあった。延縄とはちがうが,にたようなものではある。こうした事実をみると,生業というのは,農も漁も狩もそのときどきに生きるため,何でもやるということでさえある。中世における海民の漁業は,海の幸を利用するくらしである。技術と船とそして都市の需要のないかぎり水産業はできなかった。山野河海は古来固有の論理が働く。それを分割したのは都市貴族と寺社である。山野河海の分割が打ち出されている。鎌倉幕府は1259年(正嘉3)2月9目に浮浪人の身命を助けるべしと布告し,浮浪人が飢饉のとき食糧確保のため,山海の自生植物や海産物をとって生命をつないでもよいといった。ところが地頭がその領内の薯蕷・野老や魚鱗海藻の用益権を主張して禁じたため浪人の死者が続出したといわれている。それだけに幕府の布令の意義はきわめて大きい。日本では肉食禁止の法令は出ていないが,関東新制では魚類・鳥獣の殺生禁断は1261年(弘長元)の布告に定められている。それは肉食がひろく行われていたことを示している。
【木地屋】木地職には四職がある。山中の木を伐り,轆轤を使って椀や盆の木地をつくる人を木地師,木地くり,轆轤師という。轆轤を用いる轆轤師のほか杓子師,塗物師,引物師を四職といっている。もとは轆轤師だけが綸旨をもらっていた由緒ある人々であった。その中心は近江国の木地屋で根元地の山野宮の社務を起源とし,その筒井の職頭が木地を扱うものの統領をつとめている。木地師は小椋谷の蛙谷・君ケ畑の氏子狩帳にあるもので,木地屋を家業として営む業と考えている。同国同姓のものが多く,一般に木地職の人,木地職方云々と呼んでいる。この人たちはのちに椀木地のみでなく,杓子木地・箱木地・箪笥木地・仏壇木地・籠木地などもつくっている。木地師の仕事は,刳る・割る・剥ぐ・掻くの4種である。杉本寿の木地師の概念の分類をみると,[1]丸物木地師(横木地師・鋳物木地師・木形子木地師・金属轆轤物師・堅木地師)[2]角物木地師(板物木地師),そのなかに箱木地師・指者(物)師・朴木地師[3]桧物師の中には曲物師[4]塗物師には丸物塗物師・角物塗物師・曲物塗物師・春慶塗物師があり,[5]杓子師のなかに本系杓子師・塗杓子師・土産物杓子師などがある。とくにおぐら(小倉・小椋・小蔵・御座・巨椋・尾倉・御倉)とは木地師の居住小椋の伝播地名で,クラ(刳)の地形・地名とかかわる。この人々も比較的自由な旅人であった。そしてまた偽文書のにない手でもある。そして後南朝の小倉宮と結びつけている。以上のごとき特別な職業をもつ人々は必ずしも生業という内容とは多少ニュアンスが異なるが,生産業ともいうべきものかもしれない。公界住来人として自由に移動できる。とはいえこの種の仕事に従事するもののみができたのである。
【なりわいの意義】なりものとは生物,成物をさし,原則として田畑からの収穫物,その果実をさす。なりものの木をくだもののなる木,果樹ということからも,なりわいは先述したごとく五穀が実るようにつとめること,田畠耕作することがもとであった。したがってそうした生産を基本とした。またそれと関連したものであることはくりかえしのべてきた。『綜合日本民俗学語彙』によると〈正月十四日に若木で小さな百姓道具を作って祝うことをナリワヒと称する所がある。富山県下新川郡の村々では,この日クワの木で米俵・杵・臼・鍬・鎌を作って神棚に供え〉る。このような儀礼をナリワヒといっている。こうしたことは各地で行われている。しかしもとはといえば,年中行事の儀礼がもとではなく,先述したような仕事がもとであった。大きくなること,成長することをいのる成長祭のような儀礼,たとえばナリワイギも,ものが成長し,成合うことを祈る,農事の木である。そうした成長と結実を得るためのいじめとして,ナリモノイジメという様なことをしたり,成木責めなどをしたりしている。生業のなかには養蚕,機織り,畜産,色染め,手工なども含まれる。
〔参考文献〕文化庁文化財保護部編『日本民俗資料事典』1969
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