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●奈良時代 ならじだい

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 律令制古代の一時期。710年(和銅3)に奈良に遷都してから,784年(延暦3)に長岡京に遷都するまでの74年間をいう。また,この長岡京の10年間を含めて,広義の奈良時代の下限を794年(延暦13)とする説もみえる。701年(大宝1)における大宝律令の成立は,わが国の律令を法体系的に完成させたが,この時期に政治的な地歩を上昇させたのは,大納言に昇った藤原不比等(ふじわらのふひと)である。この不比等を実質的な中心にして704〜707年(慶雲年間)の飢疫(きえき)を乗り切った律令政府は,708年(和銅1)3月に右大臣へ進んだ不比等を事実上の指導者として,律令体制の具体的な貫徹をはかった。710年の平城遷都は,その一環であり,律令国家の中心地にふさわしい中国的な宮都の建設が推し進められた。

【律令体制の進展】元明,天正とつづく女帝のもとで,不比等は政治的実権を固め,717年(養老1)末ごろには,名実ともに不比等政権と呼びうる地歩を確立した。同年4月,民間僧行基(ぎょうき)とその弟子らが,数カ条にわたる僧尼令違反として厳しい禁圧を受けたのは,不比等の律令体制貫徹への意図を物語るものといえよう。そして718年(養老2)ごろには,養老律令の編修を行ったが,その終了は721〜722年(養老5〜6)に及んだ可能性がある。しかし,不比等は720年(養老4)8月に没し,舎人親王ら皇親派の巻き返しのなかで,2世王の長屋王高市皇子の子)が政府首班の座についた。一方,藤原氏は不比等の次男房前(ふささき)が,元明太上天皇の崩じる直前の721年(養老5)10月,内臣(うちつおみ)に任ぜられ,天皇の意向に密着して,直接に諮問に答える地位を与えられた。この長屋王政権下の722年(養老6)閏4月に百万町歩開墾令,翌723年(養老7)4月には三世一身法が発せられたが,724年(神亀1)2月には待望久しかった聖武天皇の即位をみた。ここでしだいに対立を深めた長屋王と藤原氏との関係は,ついに729年(神亀6)2月,長屋王の変を生んだ。長屋王を葬り去った藤原氏は,藤4子つまり不比等の4人の男子である武智麻呂(むちまろ),房前,宇合(うまかい),麻呂を中心とする政界を構成した。そして口分田再分割の強行など,律令体制の振興につとめたのであるが,天災地変の連続と不作とによる民衆の動揺のなかで,737年(天平9)の天然痘の大流行は,数カ月のうちに藤4子全員を奪い去って,新政権の成立をもたらした。その新政府首班の座についたのは,もと5世王葛城王(かつらぎのおう)であった橘諸兄(たちばなのもろえ)である。この諸兄政権の政治顧問的な役割を担ったのは,ともに入唐(にっとう)留学から新しく帰朝した僧ゲンボウ※注1※(げんぼう)と下道真備(しもつみちのまきび,のちの吉備真備)であった。738年(天平10)正月には異例の女性皇太子として,阿倍内親王が立太子した。のちの孝謙女帝であるが,740年(天平12)9月に大宰少貮(だざいのしょうに)である藤原広嗣(ひろつぐ)が,ゲンボウ※注1※・真備の政策上への介入を排除することを掲げて,北九州で挙兵した。この反乱を鎮圧して危機を回避した諸兄政権は,同年12月に山背(やましろ)国の恭仁宗に遷都したが,その後丸4年半にわたって転々と行われた遷都の発端になった。翌741年(天平13)2月,国分寺造営の詔が発せられ,諸国は困難で長期にわたる造営事業に入っていったのである。ついで743年(天平15)5月,墾田永年私財法が発令され,同年10月には大仏鋳造の詔が発せられて,近江国甲賀郡紫香楽(しがらき)の地に寺地を開いて,造営が開始された。この開始にあたって,かつての民間僧行基は弟子などを率いて事業に参加し,畿内の民衆に呼びかける役割を果たしたのである。

【律令体制の頂点化と下降】744年(天平16)末,紫香楽では「廬舎那仏(るしゃなぶつ)」(大仏)の骨性を建てるまでに造営が進み,この紫香楽宮への遷都が行われたが,その主導権を握ったのは,武智麻呂の次男仲麻呂であったと推測される。しかし,745年(天平17)初めごろから,紫香楽宮周辺の山々に放火とみられる火災がつづき,また地震も連続したので,同年5月,平城−恭仁−難波−紫香楽と遷ってきた宮都は,丸4年半ぶりに平城京に還ったが,仲麻呂の政治的地歩は,ようやく諸兄首班を圧し始めていった。また同年正月,行基は新設された僧界最高の地位である大僧正に登用されたが,仲麻呂の主導権にもとづく可能性が濃い。そして大仏の鋳造は新しく平城外京(げきょう)の地(現在の東大寺の地)に再開されることになったのである。ついで同年11月,ゲンボウ※注1※は筑紫観世音寺に左遷されて,翌746年(天平18)6月に配所で暗殺されて死んだ。また真備も左遷されて,諸兄首班はその2支柱を失ったのである。749年(天平21)2月,大僧正行基が82歳で波乱に富んだ生涯を閉じたが,同年7月2日に聖武天皇は阿倍皇太子に譲位し,天平勝宝元年と改元された。この孝謙女帝の即位で,皇太后になった光明子づきの官司に政治機関を積み重ねた紫微中台(しびちゅうだい)は,光明皇太后と,その長官である紫微令(しびれい)を兼ねた仲麻呂とが,政治的実権を握るための政治拠点になったのである。ついで752年(天平勝宝4)4月に大仏開眼会(かいげんえ)が行われたが,東大寺の造営はその後も長く継続されていった。やがて政治的地歩を低下させた橘諸兄は,757年(天平勝宝8)2月に致仕し,同年5月に聖武太上天皇が世を去ると,翌757年(天平勝宝9)正月に没した。ここで諸兄の嫡子奈良麻呂と大伴古麻呂とを中心とする反仲麻呂派の動きが活発化するが,同年5月20日に養老律令が施行された。その施行は政治的な意図が強く,同年7月に反仲麻呂派のクーデタ計画が未遂のうちに摘発され,厳しく処分された。奈良麻呂の変である。ついで同年8月18日,天平宝字元年と改元されたが,反対派を一掃した仲麻呂の地歩は,権勢家的な相貌を帯び始め,翌758年(天平宝字2)8月,孝謙女帝から淳仁天皇への譲位が行われると,彼は藤原恵美朝臣押勝(ふじわらのえみのあそんおしかつ)と氏姓名を賜わった。しかし,この押勝の権勢も,760年(天平宝字4)6月に光明皇太后が世を去ると,上からの支えを失って後退化し,政策的な失敗や道鏡の進出も加わって,764年(天平宝字8)9月,ついに反乱をおこして琵琶湖北西岸で敗死した。ついで同年10月に淳仁天皇が廃され,孝謙太上天皇が重祚(ちょうそ)して称徳女帝となったが,道鏡と吉備真備との異例な昇進が注目され,766年(天平神護2)10月には,道鏡が法王,真備が右大臣に昇進した。そして765年(天平神護1)3月には,墾田永年私財法を原則的に停止する加墾禁止令が発せられた。ここで独身の女帝が皇太子を決定せず,道鏡を重用したことが,政情不安を生む要因となったが,670年(神護景雲4)8月,女帝が53歳の生涯を終えると,法王道鏡の下野の薬師寺への配流と真備の政界引退とを生んだ。

【いわゆる律令制再建期】称徳女帝が崩じた日,左大臣藤原永手(ながて),参議藤原宿奈麻呂(すくなまろ,のちの藤原良継)らは,真備らの主張を排して,天智天皇の孫で施基親王の子である白壁王を皇太子として擁立,皇太子は同年10月朔(ついたち)に即位して光仁天皇となり,宝亀元年と改元した。同月に立后した井上内親王(聖武天皇皇女)と,翌771年(宝亀2)に立太子した他戸親王は,772年(宝亀3)初めに廃されたのである。同年10月は称徳朝に発せられた加墾禁止令が解除されて,墾田永年私財法が復活された。ついで773年(宝亀4)正月には山部親王が立太子したが,翌774年(宝亀5)3月の不用な員外国司の廃止を始め,いわゆる律令制再建運動が開始された。そして781年(天応1)4月,光仁天皇は山部皇太子に譲位し,桓武朝が成立したが,光仁太上天皇は同年12月に73歳で崩じた。いわゆる律令制再建運動は,貴族支配維持のための律令体制の縮小再建であったが,この桓武朝に本格化していくのである。

〔参考文献〕野村忠夫「奈良時代の政治過程」・笹山晴生「平安初期の政治改革」(岩波講座『日本歴史』3,古代3)1976,岩波書店

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