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●奈良 なら

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 大阪市の東約40km,奈良盆地の北辺にある。

【平城京】奈良が歴史の舞台におどり出たのは,8世紀初めの平城京の造営によってであった。しかし,それより数百年前の弥生時代,奈良の地はすでに人びとの生活の舞台になっていた。平城宮跡,その他から当時の住居跡がみつかっている。佐紀古墳群をはじめ多くの古墳が残されているが,古墳時代この地に勢力をはったのは和珥(わに)氏であった。和珥氏はのち春日氏を称するが,皇室との関係も深く,大和でも有数の豪族であった。710年(和銅3),藤原京から奈良に都が移され,平城京がたてられた。その後,70余年のあいだ,奈良は古代日本の首都として栄える。平城京は,東西約4.3k111,南北約4.8km,その東に東西約1.6km,南北約2.1kmの外京が加えられていた。京域は,平城宮から南に走る朱雀(すざく)大路を中心に,大路と小路によって碁盤の目のように整然と区画されていた。平城京の造営に伴って,飛鳥(あすか)にあった薬師寺,元興寺大安寺興福寺などの諸大寺がぞくぞくと新京に移され,やがては東大寺,新薬師寺,唐招提寺西大寺なども建てられて平城京をかざった。最盛期の人口は約20万人,新羅(しらぎ)や唐など異国の人の訪れることもあった。この都に天平文化の花が開き,その優れた文化遺産の数々が今に残されている。

【寺社の町】都が京都に移って平城京は廃絶したが,あとに残された寺社を中心に奈良は新しい歩みを始めた。10世紀を迎えるころから,王朝貴族の社寺詣がさかんになるが,これは観光奈良の源流とみることができよう。東大寺は大仏ゆえにその勢威を維持し,興福寺は藤原氏の氏寺として春日社とともに勢いを伸ばした。外京にあったこれら両寺や元興寺のまわりに,しだいに“まち”(郷)が生まれ,奈良の町のもとがつくられていった。1180年(治承4),平重衡の焼打ちにあって,奈良は全滅に近い打撃を受けた。しかし,東大寺や興福寺の再建がすすめられるなかで,奈良の町もみごとに復興,鎌倉美術の宝庫ともなった。13世紀の末には,すでに数十の郷を数え,15世紀末,堺に追いこされるまでは,京都につぐ日本第2の都市として栄えた。寺社のもと,商業や手工業の堅実な発展があったからである。16世紀の初めには,郷数200,人口2万5,000人を数えたという。

【近世の奈良町】応仁の乱のあと,京都や堺との交流が始まり,町民のあいだに自治的な動きもみられたが,1560年(永禄3),松永久秀が奈良に入って多聞城を築き,奈良は初めて武家の支配下におかれた。久秀と三好三人衆の合戦で,再び大仏殿が焼けおちたのは,それから7年後のことである。秀吉の太閤検地で近世の奈良町のかたちがととのい,江戸時代には幕府の直轄地として奈良奉行の管轄下におかれた。17世紀末の調べでは,総町数205,人口3万5,000人を数えている。近世前期の奈良は,奈良晒(ならざらし,麻織物)を筆頭に,甲冑・刀・酒・墨などの特産があり,なかなかの産業都市であった。とりわけ奈良晒は,南部随一の産業として栄え,最盛期の17世紀後半には,年々30万疋から40万疋(1疋は2反)の生産があった。ところが,大仏殿の落慶供養が営まれた18世紀初頭を画期として,奈良の産業は墨を除いていずれも衰えていく。奈良は活気を失って,しだいに観光の町としての性格を強めていった。幕末の人口は2万人余り,沈滞した雰囲気のなかで明治維新を迎える。

【近代の奈良】明治初年の廃仏毀釈(きしゃく)で諸大寺が打撃を受け,1876年(明治9)から10年ばかり,堺県や大阪府に合併されて奈良県が廃止になったことは,奈良には大きな痛手であった。1887年,奈良県が再設置となって県庁が戻ってきたが,2年後の市町村制施行の際には,人口不足のため市になれなかった。1898年待望の市制を施行,この前後大阪,京都に鉄道が通じ,奈良公園も整備されて,奈良もようやく近代都市としての面目をととのえ始めた。1914年(大正3),現在の近鉄奈良線が開通して,奈良をいちだんと大阪に近づけることになった。奈良がやなどの新しい産業が発展し,観光客も年とともにふえていった。さいわい太平洋戦争の戦禍をまぬがれ,1950年(昭和25)には奈良国際文化観光都市建設法が成立した。その翌年から隣接町村の併合がすすめられ,1957年現在の市域が確定した。西部の新市域を中心に住宅地が急増,大阪のベッドタウンとしての性格を強めている。

〔参考文献〕永島福太郎『奈良』1963,吉川弘文館

木村博一『奈良のあゆみ』1981,新訂,奈良市役所

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