●ナポレオン法典 ナポレオンほうてん
ヨーロッパ フランス共和国 AD
ナポレオンが制定したフランスの民法典の別名。【経過】フランスでは,絶対主義が成立したころから,全国統一的な法の施行がのぞまれ,統一法典を編さんする企画はもたれた。フランス革命時代には,この作業は具体化して,草案が何度か議会に提出された。しかし,身分,階級,職業の相違に加えて,地域的な利害がからんで未成立に終わっていた。
ブリュメール18日のクーデタ(1799年11月9日)によって,総裁政府を倒して第一執政となったナポレオンは,革命のブルジョア的成果を法制定によって固め,自己の名声をあげ,かつ,国家の近代的編成を急いだので,新税体糸の樹立に続いて,1800年8月,当時の著名な法学者であるトロンシェ,ビゴ=ド=プレアムヌー,マルヴィル,ポルタリスの4人を起草委員に命じて,民法典の編さんを進めさせた。
この間,ナポレオンは1802年8月2日,後継者の指名権をもつ終身執政に就任して,独裁者の地位を固めるとともに,行政・裁判機構を改革し,県知事の創設や裁判官の掌握などを通じて中央集権化を進めた。また,フランス銀行の設立・改組,ジェルミナール=フランの発行,ピオ7世との協約によって,カトリックを復活させて農民を安心させながら,聖職者を国家機構のなかに組みいれるなどの政策によって,革命の所産を拡大していった。
【成立と内容】これら一連の事業のなかで,1804年3月21日,2,281条からなる民法典が「フランス人の民法典」として公布された。この法はナポレオンの功績を記念して,1807年9月3日の法律によって「ナポレオン法典」と改名された。この名称はその後,廃止されたり,復活したりしたが,1870年,普仏戦争でナポレオン3世が敗れ,共和政になったころから,単に「民法典」と公称されるようになった。
内容の上では,ブルジョア民主主義革命を経過してきたことを受けいれ,第1編「人」において,人間のもつ自由や法の前における平等などを規定し,第2編「財産と所有権の諸形態」においては私有財産の絶対性を強調し,第3編「所有権取得の諸形態」では近代的契約を示している。総括的にいえば.市民社会原理を法の形で明示して,個人を基礎にした自由な社会形成の基礎をなしているといえる。その後,社会の発展,変化があり,経済構造が変わっていくにつれ,特別法や判例法が加えられ,補完・修正はなされたが,基本的には,現在にいたっているといえる。
【意義】ナポレオン法典はローマ法の精神を,近代に甦らせたものであるといわれる。自然法思想にもとづくロ−マ法は,中世にあっては神の摂理を優先させた教会法体系にとって代わられ,絶対主義時代にあっても,王権神授説による法体系が支配していた。ナポレオン法典はこれを克服して,人間社会のなかにおける人間の自由な活動を助長するために,人間が規制する法を実現した。これが,この法典を市民社会のための近代法たらしめる理由である。
ナポレオンは革命の精神を引きつぐ一方で,ヨーロッパ征服も行った。ナポレオンが占領した国では,この法典に手を加えたものが実施された。イタリア,ベルギー,スペイン,ポルトガルなどがその典型的なもので,この法典の精神は全ヨーロッパにひろがり,ヨーロッパの法を導入したラテン=アメリカ諸国,アメリカや日本の法も同一原理のものとなって,近代国家の法にそれぞれ共通することになった。「ローマは3度世界を征服した。武力によって,キリスト教によって,そしてローマ法によってである」といわれる理由もここにある。
なお,民法典に限らず,ナポレオンによって制定された商法・刑法・民事および刑事訴訟法の総称として,ナポレオン諸法典ということもある。