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●ナポレオン戦争 ナポレオンせんそう

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統領制期から帝制末までのあいだ、ナポレオンが行った戦争。イタリア再遠征から1802年のアミアンの和約までを第1期、短い平和をはさんで、1803年の戦争再発と1805年、第3次対仏大同盟の締結をへて、1808年のイベリア半島戦争の開始までを第2期、それ以後、1812年のモスクワ遠征とその後の解放戦争までとに分けられる。

【イタリア再征】ナポレオンは、ブリュメール18日のクーデタで国内秩序を回復したあと、マレンゴの勝利(1800年6月14日)で、先に一時失ったイタリア北部の領土を奪回。これで国民的信望は高まり、ルイ18世の即位の望みは絶たれた。他方、モロー将軍がホーヘンリンデンでオーストリア軍を破り、リュネヴィルの和約(1801年2月9日)を結んで、先のカンポ=フォルミオの和約の成果、つまり、ライン左岸の占領とチェザルピナ共和国の堅持などを確認。1802年1月、自らイタリア共和国大統領に就任。アディントン内閣の和平策もあり、イギリスとは1802年3月27日、アミアン条約を結び、治世中めずらしい国際平和が1年余り続く。

【イギリスとの全面戦争・第3次対仏大同盟】王党派による暗殺計画、サン=ドマング島出兵、マルタ島撤退交渉の難航などからイギリスは、1803年5月、アミアンの和約を破棄。翌年5月の皇帝就任と前後して全面戦争に突入。トラファルガーの海戦でスペインとの連合艦隊がネルソンに殲滅させられ、イギリス上陸作戦は失敗したが、同じ1805年10月、精鋭な「大陸軍」は、ウルムでオーストリア軍を包囲・降伏させ、1805年12月、近代戦の開始といわれるアウステルリッツ三帝会戦では敏速な作戦で敵主力を破り、プレスブルグの講和でイタリア全土がナポレオンの手に帰した。小ピットは退陣し、対仏大同盟は解体。ドイツの政治的再編が促進され、1806年7月、西南ドイツ15領邦は神聖ローマ帝国を離脱して、ナポレオンを保護者とするライン連邦に編成された。これに不満なプロイセンはロシアと結んで一戦を交えたが、10月、イエナとアウエルシュタットで敗れ、ナポレオンはベルリンに入城して12月、大陸封鎖令を発す。余勢をかってアイラウにロシア軍を追撃。1807年2月、ポーランドに憲法を与えワルシャワ大公国を建設、7月、ティルジット条約でロシア、プロイセンに既得の成果を承認させた。アレクサンドル1世のロシアは大陸封鎖に加わり、“中欧を締めつける”露仏同盟の密約を結んだ。プロイセンは、エルベ以西を失い軍事占領下に置かれたが、民族的屈辱のなかからシュタインの農奴解放グナイゼナウの軍制改革が行われた。ナポレオンは兄ジョセフをナポリ王に、弟ルイをオランダ王にジェロームをヴェストファーレン王に配し、このころ全盛期を迎えた。

【半島戦争】大陸封鎖を貫徹するため、ポルトガルを征服する必要を感じ、1807年11月、陸路リスボンを占領させた。ついでジョゼフをスペイン王につけ、バイヨンヌ憲法を押しつけた。マドリード市民は、農民と正規兵を加えて反仏蜂起をおこし、地方でもゲリラがフランス軍を悩ました。1808年11月、ナポレオンは自らマドリードに入り、宗教裁判の廃止、領主権の撤廃を行ったが、民衆の抵抗はとまらず、サラゴサで奮戦した。ウェリントン将軍に援助されたスペイン人の戦いは、オーストリアを奮起させたが、ナポレオンは1809年7月5〜6日、ヴァグラムでこれを降した。10月、シェンブルグ講和条約でイリリア地方などを割取、翌年2月、オーストリア皇女のマリー=ルイーズと結婚。1811年3月に生まれた子供をローマ王にした。これらのことは、帝王思想の現れとみられた。

モスクワ遠征諸国民解放戦争】ロシアが大陸封鎖を侵して、イギリスとの通商に踏み切ったため1812年5月、42万のフランス軍をロシアに差しむけた。ロシア側の焦土作戦のため長期化し、9月のボロディノの激戦後、クレムリンより撤退。コサック騎兵、農民ゲリラ、冬将軍の急追を受け、スモレンスクで3万6,000の軍隊を見捨てて帰国。1813年、新兵徴集で態勢を立て直すが、2月、プロイセンはロシアと同盟し、これに旧部下のベルナドット将軍のスウェーデンが加わり解放戦争が始まる。5月、リュッツェンで勝者となるが、ライン連邦の解体・オランダの独立などを骨子としたメッテルニヒの調停案を拒んだため、オーストリアは連合側に移る。1813年10月、22万の連合軍を迎え撃つライプツィヒの「諸国民戦争」は、ザクセン軍の寝返りもあって敗北。1814年1月からフランス戦役となり、シャンパーニュ、イール=ド=フランスと後退を強いられる。連合国側の提案した1792年、国境への復帰をはねたのち、アルシで3分の1の兵力で対抗。マリー=ルイーズあてのロレーヌでの作戦計画が連合軍に察知され、ロシア軍がパリに進撃。3月末、マルモン司令官が降伏し、ナポレオンは4月6日に退位してルイ18世が王位についた。1815年3月、エルバ島を脱出したナポレオンは、自由主義者と結んで再び帝位についたが、ウィーンに会議中の連合国はこれを認めず、6月18日、ワーテルローの会戦でウェリントンのイギリス軍、ブリュッヒャーのプロイセン軍のため、近衛兵まで打ち破られ、最後の望みを絶たれる。7月パリは開城。第2次復古王朝となり、ナポレオンは10月、セント=ヘレナに流された。

【戦術】ナポレオン軍は、ケレルマンブリュヌベルティエ将軍など、革命によって昇進の機会に恵まれたブルジョワ出身の有能な将校を抜てきしてできたが、丘陵地、平野での戦いを得意とし、騎兵隊による中央突破で敵をひるませ、そこに砲撃を浴びせる戦法で、中欧・北伊での戦闘をものにした。しかしスペインでのゲリラ戦や、ロシアのステップではこの戦法は通じず、イギリスの歩兵隊は野戦築城を得意とし、ナポレオン軍を消耗させた。

【意義】ナポレオン戦争は、諸外国から革命戦争の延長とみなされ、ナポレオンも征服地で領主権の廃棄など、ブルジョワ的改革を行った。しかし征服地での圧制が、逆に民族の独立心をかきたて、旧勢力と民衆との共同の解放戦争を招いた。また、イギリスの資本主義に対抗してフランス資本主義を育成する戦いをも意味し、大陸封鎖は、英製品の排除、仏産業のための原料確保、仏製品の市場独占の意味をもったが、他面、ヨーロッパ大陸の植民地貿易を後退させ、中欧諸国の工業にも打撃を与えた。

〔参考文献〕井上幸治『ナポレオン』岩波新書

アンリ=カルヴェ、井上幸治訳『ナポレオン』クセジュ文庫、白水社

吉田静一『フランス重商主義論』未来社