●ナポレオン1世 ナポレオンいっせい
ヨーロッパ フランス共和国 AD1769 フランス王国
1769〜1821 ナポレオン=ボナパルトともいい,フランスの第1統領(1799〜1802),終身統領(1802〜04),皇帝(1804〜14,1815)となる。【戦歴以外の経歴】コルシカ島アジャッシオの旧家の生まれ。父はブルジョワ地主で独立運動の敗将パオリの副官。母も戦闘に参加した。この両親の8人の子のなかの次男。少年時代,プルタルコスの『英雄伝』に傾倒。1779年,オータンの修道院学校に入るが,すぐやめ,1784年まで,国の給費を受けてブリエンヌ陸軍士官学校で教練に服し,古今の戦術を研究。数学に秀で,マキァヴェリを熟読した。1785年から駐屯生活で各地を回り,オーソンヌでバスティーユ占拠の報に接する。これ以後,国王と民衆を軽蔑しながら時の流れに従うことを決意し,ヴァランスでジャコバン協会に加入。1792年春,コルシカに帰郷中にアジャッシオ国民衛兵隊中佐となり,同地の革命運動を指導するが,イギリスを頼るパオリと決別し,1792年秋〜93冬の帰郷,戦闘指揮を最後に,母,妹とフランスに戻る。大尉に昇進後,1793年12月,イギリスによるツーロン砲囲を解き,旅団長に。この機,国民公会議員サルセティ,ロベスピエール弟とつながりがあったため,テルミドールの反動で一時投獄される。釈放後バラスに見出され,1795年10月の王党派の蜂起を鎮定した功績で師団長に昇進した。寡婦であったジョゼフィーヌを紹介され1796年に法律上の結婚。同年,イタリア遠征軍総司令官として転戦後も,1797年9月の実月のクーデタの際には軍の一部を遣り王党派を抑えた。第2次対仏大同盟,イタリア奪回の報に接し,1799年10月,遠征先のエジプトを脱出。総裁政府を見限り,シエイエス,カンバセレスなどと結んでおこしたブリュメール18日のクーデタで第一統領に就任。
【統領時代の内政】新憲法で与えられた絶大な権力を用い,まず1800年1月,フランス銀行の創設と行政・司法の再編成で中央集権制を築いた。とくに県知事は,地方行政の長として,旧体制下の国王監察官に比せられる。1801年7月には,ピウス7世と交渉し政教協約を締結し,カトリックに分教の位置を回復した。1802年3月のイギリスとのアミアン条約締結で得た平和を利用し,ポルタリスなどに民法典を作成させ,帝制樹立後も民事訴訟法(1806)・商法(1807),刑事訴訟法(1808)・刑法(1810)を完成させた。この間,1802年8月に憲法を改正し終身統領としてその地位を固めたが,文武官職に旧体制末以来の有能者を登用し,亡命貴族の恩赦をして国民融和をはかる一方,ジャコバン残党の反対派や王位復活を企てる王党派は容赦なく弾圧した。サン=ニケーズ街事件(1800年12月)を口実とした130名の左派共和主義者の追放や,アンギャン公の銃殺(1804年3月)などはその例である。また,政教協約に反対の自由主義者が多かった護民院を刷新し,のち縮小した。
【帝政時代】1804年5月,王党派の望みを絶つべく,元老院に皇帝の称号を献捧させた。〈余はルイ16世を継いたのではない。シャルルマーニュを継いたのだ〉。同年12月,ノートルダムで戴冠式を行い,宮廷がおこされた。すでに統領時代にレジョン=ドヌール勲章を軍功者・工業発明家に与え始めたが,1808年3月には帝制貴族を創設し,一部旧貴族を含め3,500名に授受した。全体に軍事的・専制的色彩は強まり,護民院の廃止など議会制は極端に弱められ,スタール夫人の『ドイツ論』の焼却など言論統制を強化した。オーストリアを破ってウィーン入城を果たした帝政の絶頂期にジョゼフィーヌと離婚,マリー=ルイーズと再婚(1810年4月)。
【経済政策】農民には,革命中獲得した土地財産を保障したが,この時代,分割相続によって過小農を固定化する傾向を生んだ。イギリス製品の締め出しと,中欧・南欧での市場の拡大をはかり,1806年11月のベルリン勅令で大陸封鎖を敢行した。このため,フランスの製造業は恩恵に浴したが,反面プロイセン,ロシアの農業者やザクセンの綿織物業者は損害をこうむり,フランス領内でさえ貿易商人は抵抗を示した。労働者に対しては団結の禁止を再確認し,労働手帳により規制した(1804年4月・11月)。
【帝国の没落】大陸封鎖による諸国の不満は,軍事支配への反抗,解放戦争に転じる。また1812年のロシア遠征のための間接税の増徴が国民諸階層に不満と厭戦気分をひろげた。ライプチヒの敗戦後,自然国境への復帰による和解をナポレオンが蹴ったため,連合国とのフランス戦役を迎え,1814年3月に降伏する。このころなお農民の支持は固かったが,銀行家,貿易商人はヨーロッパの平和を求め,タレイラン,フーシエはナポレオン打倒,ブルボン家の復位を画策した。加えてモロー,マルモンなどの将軍が相次いで寝返ったのが敗北の原因とされる。ルイ18世の不人気に乗じて,エルバ島を脱出し,百日天下(1815年3〜6月)を築くが,帝制貴族とコンスタンなど自由主義者の寄合世帯で,皇帝と議会制との調整を果たさぬうちに新たな戦争に突入。ワーテルローの戦いで決定的敗北をこうむり,セント=ヘレナヘ流され一生を閉じた。死後,この「革命の申し子」を偶像視するナポレオン伝説が生じた。
〔参考文献〕井上幸治『ナポレオン』1957,岩波書店
アンリ=カルヴェ,井上幸治訳『ナポレオン』1966,白水社
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