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●灘の酒 なだのさけ

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 江戸積酒造地として江戸時代後期に,摂津西部沿岸地帯で醸造された酒で,灘酒(なだざけ)または灘の生一本(きいっぽん)とも呼ばれ,日本酒の銘醸酒として今日でもその名声を博している。灘地方は江戸時代に灘目(なだめ)と呼ばれ,それは灘辺という意味でもある。東は武庫川口より,西は旧生田川筋にいたる沿海24kmばかりの沿岸地域の総称である。したがって広義の意味では灘目のほかに今津も含まれ,灘目は上灘と下灘からなっていた。したがって江戸時代の江戸積銘醸地としては,今津,上灘,下灘をもって灘三郷と称し,上灘がのちに東組・中線・西組の3組に分かれるので,これを合わせて近世の灘五郷を形成していた。西宮は今津と灘目に狭まれて,地域的には灘地方に位置していたが,類型的には近世前期の都市酒造仲間に属し,大坂町奉行支配で,灘目・今津の代官所支配とは支配関係を異にしていた。これが明治になって下灘は酒造業から脱落し,1886年(明治19)に改めて摂津灘酒造業組合が結成されたとき,西宮を加えて今津,魚崎,御影・西郷からなる現在の灘三郷が形成されたのである。灘の酒は江戸時代中期以降,江戸積酒造地として発展したため,地方市場を販路とする地酒とは異なり,初発から当時の100万都市の消費人口をもつ需要に刺激されて発展した。近世初頭以来,上方から江戸積の酒が積み送られたが,それは技術的にまだ濁酒が圧倒的であったなかで,中世以来の僧坊酒の伝統を受け継いで,南都諸白が河内から摂津に移り,やがて伊丹,池田周辺に技術伝承されて,商品性の高い営業酒としての伊丹諸白がこの地に定着していったものと考えられる。諸白とは麹米・掛米ともに白米で仕込まれた酒で,いわば今日の清酒の原型であり,濁酒よりは技術的にはるかに優れた清酒の登場であった。しかも蒸米・米麹・水を仕込んで酒母をつくり,これを培養基として初添・中派・留添と3段掛けの醸法をとって仕込まれる酒で,当時「近代絶美なる酒」として高く評価された。伊丹諸白とはこうしてつくられた酒で,1697年(元禄10)には上方から江戸への入津樽は60万樽を記録した。この江戸時代前期の江戸積酒造地たる伊丹,池田に対抗して,18世紀以降に急速に台頭してきたのが灘の酒であった。その発展要因としては,まず1730年代(享保末年)に米価下落の事態に直面して,幕府が幕初以来の在方酒造業禁止の祖法を破棄して,改めて酒造奨励策を打ち出してきた点があげられる。これを契機に,すでに大坂,兵庫に近接して早くより商品生産と流通のなかで成長してきた灘地方の在方商人は,その蓄積せる資本を江戸積酒造業に投資して,やがて酒造業に専業化していったのである。また内陸部に位置した伊丹,池田とは異なって,海岸筋に面した灘地方は江戸積への輸送にも有利な立地条件に恵まれ,輸送費をそれぞれ節約することができた。

 それのみならず,灘の酒は技術的には六甲山脈からの流水を利用した水車精米によって,精白度を高めかつこれまでの足踏精米に代わって省力化による大量の精白を可能にした。さらに伊丹などでみられた新酒・間酒・寒前酒・寒酒・春酒といった,年5回にわたる醸法を改めて,灘酒は寒中に仕込む寒酒に集中していった。そのため酒母仕込みの開発によって,寒中100日間での寒酒の量度化を実現していった。そのため蒸米・麹米・仕込水の合理的な割合を試行錯誤的に実験しながら,ついに使用水10石から10石の清酒を製成する「石水の法」を開発することができた。それは水に対する異常な関心を示した灘酒造家の宮水の発見につながり,やがて1日10石の原料米を使用していくのを一ッ仕舞と称し,これを100日間反復して合計1,000石の原料米を消化していく千石造りの酒造マニュファクチュアを成立させた。それに応じて酒造蔵やその内部で使用する道具や桶も大型化し,いわゆる千石造りの千石蔵を出現させていった。出稼ぎの蔵人を雇用し,千石造りで杜氏(頭司)以下頭,衛門などの蔵人13人が,杜氏の統率のもとに100日間酒造蔵のなかで,夜を徹しての酒造仕込み労働に従事したものである。

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