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ナショナリズム

 民族主義・国民主義・国家主義などと訳され,使用されている場所や時代によって,一つの概念で縛ることはむずかしい。特定の民族や国家が結束を強め,政治・経済・文化的に自己の独自性を強調したり,拡張的になることをさすが,拡張的なナショナリズムや植民地的支配に対して,いわば受動的な形で国家的・民族的主張を貫く場合にもみられる。いずれにしても,自己を他と区別するなんらかの優越意識に支えられ,自国または自民族の自由を主張したり,守ったりするので,自由主義と結びつくことが多く,普遍主義とは対立するものといえる。

【広義のナショナリズム】ナショナリズムを広くとらえると,社会生活の開始と同時に始まったということができる。素朴な経済段階においては,生活を維持していく必要から,小集団が固有の生活手段を守るために,他の小集団と抗争する。それらは部族主義と呼ばれ,ナショナリズムとは区別されるが,それにもかかわらず,現代の発展途上地域におけるナショナリズムの根底に存在する要素として働いているので,無関係のものとして退けることはできない。古代においては,一般に,高い政治や文化の水準を有する国家や民族とそれ以外とのあいだの格差が大きい。漢民族を中心にした中国諸王朝国家とその周辺,ギリシアのポリスと北方民族の関係などがその例である。このとき,中国にあっては,周辺の民族を東夷・西戎・南蛮・北狄とし,自らを中華とするような中華思想が生まれ,ギリシアでは,ことばの通じない非文明人(バルバロイ)に対するギリシア人という思想が,ポリスの乱立を超えたギリシア人の共通の世界観となってくる。これらは原初的な形における優越的ナショナリズムといってよい。しかし,政治的・軍事的に劣勢に置かれた国家や民族でも,密かに自国の潜在的優越性を自認していることが多い。ヤハウェの神は多くの試練を課しながら,最終的にはイスラエルの民のみを救済するとしているユダヤ教の選民思想はその代表的なものであろう。一般的に,自分たちの神は自分たちだけを護り,他を破滅させるものとし,守護神を正義・善・幸福のシンボルとみなして,他の神を悪・暗黒のシンボルとしてとらえるのが素朴民族に共通するところで,変形された宗教的ナショナリズムといえる。

【歴史的概念の成立】ナショナリズムが,歴史学上の概念用語となって成立してくるのは,近代ヨーロッパ,とりわけ絶対主義国家の出現と結合してである。中世国家は国家の形態をとりながら,実体的には封建国家である。そのため,王権は貴族や教会によって多くの制約をうけていた。少なくとも,住民の日常的統治はその地の領主が行い,不入権によってそれが保障されていた。したがって,領主と住民のあいだは忠誠と保護によって固く結ばれ,小地域での結束が強く,国家意識を弱めた。このことは,幕藩体制が終わるまでの日本で,日本あるいは日本人の意識が薄く,藩民意識が支配的であったことからみても判明する。一種の地域的郷土愛といえるものが,領主と領民の関係を軸にして存在していた。絶対主義は封建制度の再編成とみなされる部分をもちながら,王権が絶対化して,その王権の下に,統一的国家が出現してきた。絶対主義国家は王または王家による国家の私有化であるとみられるところもあるので,国民国家の成立とはほど遠いのであるが,それにしても,領主による小地域的な封建支配からしだいに脱却していった領民は,中央集権的な国家の民となっていき,すべてのものが王の臣民になっていく。この過程のなかで,国家意識が鮮明になっていき,国民(ネイション)が自覚されてくる。以上からみて,ナショナリズムの成立は,他の国家などを意識して誕生したというよりも,封建制度からの脱出が基礎になっている。重ねていえば,あらゆる住民がまず国民になることが,ナショナリズム成立の第一歩であった。それゆえ,スペインやポルトガルといったイベリア半島国家では,8世紀以来,イスラーム支配をうけており,ヨーロッパ的封建支配が存在していなかったことが,いち早く絶対王政を成立させることになった。さらにイベリア国家では,イスラーム支配に対するヨーロッパ人の,ヨーロッパを回復しようとするレコンキスタ(国土回復運動)が,キリスト教と結合して進められた。つまり,異民族の異教支配に対するスペイン人のキリスト教の反撃で,1492年のグラナダ陥落後,強力なカトリック政策をとるスペイン絶対主義国家が現れた。

【国民国家にむかって】スペインでは1516年,ハプスブルク家出身のカルロス1世が結婚政策によって王位につき,1519年にはカール5世として神聖ローマ皇帝にもなった。スペイン,オーストリアと,国家としては別個であっても,ネーデルラント,ナポリ,フランシュ=コンテなどと同様,ハプスブルク家の所領地である。のちのルイ14世を象徴することば「朕は国家なり」に示されるように,絶対主義時代の国王はしばしば王と国家を同格に考え,国土や臣民を王家に所属するものと考えていた。フランスのヴァロワ家やブルボン家でも同様の指摘が可能である。多数の領主による支配から単一の王による支配に移っても,これでは主体的な国民は存在せず,まして国民国家の実体はなかった。絶対主義時代には,海外での植民地争奪戦争も含めて,国益(ナショナルインタレスト)を激しく争う戦争が多く,一見したところ,ナショナリズムの衝突のようにみえるが,ネイションが不在であったから,むしろ,王朝国家の利害衝突とみるべきであろう。ポーランド継承戦争,オーストリア継承戦争,スペイン継承戦争のような王位継承戦争の多発はそれを物語っており,七年戦争なども王位継承戦争との関連において発生している。王の支配の及ぶ範囲が国土であり,王に属する人間を国民と考えた絶対王政の体制を打破することが,行動原理になりうるナショナリズムの成立につながってくる。逆にいえば,国民国家の誕生が近代的な意味でのナショナリズムを生みだすといえる。国民国家がいつ誕生するかは,一概にいえないが,イギリスでは17世紀のピューリタン革命,名誉革命の前後から,大陸ではフランス革命や対ナポレオン戦争を契機にしているといって大きな間違いはなかろう。

【国民とは】民族が人類学上の自然的概念であるのに対し,国民とは政治的・文化的概念である。国民と呼びうるものが成立するためには,国家が存在しなければならないが,一つの国家が1民族で構成されているのは,むしろ例外的で,国家は複数の民族より成り立つのがふつうである。のみならず,一つの民族が国家上は二つ以上の国家に分断されることも多い。国民はそれに対し,歴史的に形成されてきたもので,言語や宗教などは,必ずしも統一されていないにしても,ほぼ母国語と呼ばれる共通語をもち,慣習や伝統・文化を共有して,時間的経過のなかで,文化的共同体の意識をもつようになったものである。それだけに,現代世界の問題としては,国民のなかの少数民族の位置づけとか,ドイツや朝鮮半島の場合のように,従来,一つの国民であったものが,東西または南北に,政治的に分断された場合の処理とかが派生してくる。国民国家は歴史的経過とともに,文化的概念としてなじんできた国民を基礎に,組織的に構成された国家をいう。絶対主義は国民国家を生みだす不可欠の媒介体であった。国民国家にとって,国民経済の組織,発展は欠くことができない。国民経済は,中世における制約的経済に対しては自由な活動を主張し,局地的市場から国民的市場へ脱皮する一方で,国際的競争にも耐えうるものでなければならなかった。国民経済のおもな担い手は市民階級であったが,その利害は封建貴族や絶対専制君主のそれと対立することが多く,それが反封建闘争,さらには市民革命をひきおこすことになってくる。市民革命が成功すると,市民原理による国家体制がしかれていく。それは,自由な人権を認め,多数決を原則とする代表制がとられるのであるが,同時に,王権は制約され,ときには否定されて共和政に移行していくのである。議会主義や国民に対して責任を負う責任内閣制がこれらの具体化であり,経済的にも,自由な活動と競争が原理となり,市民の手による資本主義の発達がみられるようになってくる。

【イギリスの場合】16世紀ごろまでのイギリスは,テューダー王朝下で国力の基礎を充実させてはいたが,まだ一流国には遠く及ばず,ハプスブルク家とヴァロワ・ブルボン両家などフランスとの対立を主軸にした国際関係の一端に位置する程度であった。エリザベス1世の治世にマニュファクチュア工業国家への移行を,比較的スムースに成し遂げ,17世紀のイギリス革命を契機に,資本主義と市民的国家体制を整えたイギリスは,植民地や世界商業のグローバルな争いにおいても,先行していたスペイン,オランダを激しく追い,ことに,ルイ14世の時代からヨーロッパの覇権国家となったフランスとは北アメリカやインドなどで,第2次百年戦争と称される長期戦争に入っていった。ヨーロッパにおいてはスペイン継承戦争,オーストリア継承戦争,七年戦争がこれにあたり,新大陸ではアン女王戦争ジョージ王戦争フレンチ=インディアン戦争を,インドではプラッシーの戦いを,フランスを敵にして戦い,勝利を収めていった。第2次百年戦争で,イギリスが決定的勝利を得たのは,ナポレオンを破ったときと考えられるが,18世紀の半ばをすぎたころには,ほぼ勝利を確実にしていた。グレート=ブリテン,ブリティッシュ=エンパイアーなど,大英帝国と訳されるようなことばが,18世紀後半に入るころから,イギリス人のあいだで頻繁に使用されるようになっているが,これはイギリス人が,世界帝国を意識し始めたことを示すもので,イギリス=ナショナリズムの勝利であった。イギリスは18世紀後半から,産業革命を行っていった。手工業から機械制工業生産に移ることを意味する産業革命は,イギリスにおける資本主義や技術水準の高さなど,さまざまな要因によって行われたのであるが,植民地体制をほぼ完成したことによって,世界市場を手中にし,安価で良質の原料を入手しやすくなったことも,大きな理由にあげうる。「世界の工場」となったイギリスは,19世紀にあっては,世界のなかでの独走的優越性をもつにいたり,ことさらナショナリズムを強調する必要はなく,むしろ,既存の体制を維持していくことにナショナリズムの意義を感じるようになっていった。

【フランス革命とナポレオン】絶対主義国家が大多数であった18世紀末に,フランス革命がおこった。革命のスローガンが自由・平等・友愛であったところからもわかるように,革命理念が目標にしたのは,全人類の旧制度的支配からの解放であり,その意味では普遍的な世界市民主義を理念にしていた。しかし,革命に対して,対仏同盟が組まれ,列強が一致して革命を鎮火させようとすると,フランスでは,フランスを防衛することが革命を遂行することになった。いわば,フランスのナショナリズムを貫くことが,普遍的な人類愛を確立することになる。ラ=マルセイーズを歌って,国民の国家となった祖国の防衛戦争にむかったフランス義勇兵は,元来,ナショナリズムとは矛盾するはずの普遍主義をも守ったのである。ナポレオンがヨーロッパ征服の野望をもっていたのは否定できないが,一面では,革命精神を継承し,これをヨーロッパに拡大していった。さらに,フランス=ブルジョワジーの期待に応じて,旧制度以来のフランス財政を建てなおし,ヨーロッパ市場からイギリスの独占を排除して,フランスの市場にすることにつとめた。ジェルミナール=フランを廃して,フランス銀行を設立し,いわゆるナポレオン=フランを発行したり,ベルリン勅令によって大陸封鎖を行ったりしたのには,以上の意味も含まれている。また,革命によって取得した土地を取りあげられるのではないかとの不安をもっていた農民に保障を与え,ローマ法王とコンコルダートを結んで,カトリック信者の多い農民の気持をとらえた。ブルジョワジーと農民を基礎にしたナショナリズムを固めたナポレオンは,ヨーロッパ征服戦争によってナショナリズムを高揚させた。このとき,1877年〜78年のロシア-トルコ戦争にさいして,ロシアの南下を阻止しようとしたイギリスで,主戦論的強硬論であるジンゴイズムが出現したように,自国のみをよしとする過度な愛国的ナショナリズムというべきショーヴィニズムが現れたのは注目される。ナポレオンが占領した各国にナポレオン法をしいたり,改革を迫ったことやプロイセン改革(シュタィン=ハルデンベルクの改革)の例にみられるように,敗れた国が自ら改革にのりだしたことは,各国を絶対君主の支配から抜けださせ,近代国家へむかわせることになる。その上で,ナポレオンに対抗し,これを破ろうとしたことによって,国民的ナショナリズムがひろまっていくことになった。

啓蒙思想とロマン主義】啓蒙思想の普及がフランス革命と切りはなせないのは,啓蒙的思考がブルジョワジーの思想的武器になったからである。啓蒙思想は17世紀に,イギリスの経験的合理主義を母体にしておこり,18世紀のフランスで社会に対して作用するものになっていき,それは合理主義に引きつがれ,広くヨーロッパ各地にひろまっていった。ロマン主義はそれに対抗する思想で,過去を美化し,個性を尊重する。この二つの思想が合流したとき,ナショナリズムが高唱されてくる。民族とか国家という特殊個性的なものの起源と歴史を合理的にみつめることになるからである。現在も続けられている『ゲルマン史料集』(M・G・H)の編集がプロイセンで開始されたのはその代表的なもので,ナショナリズムの生みだした文化的所産というべきである。チェコ人やマジャール(ハンガリー)人のように,他民族の支配下にあった民族のあいだにも,これらの思想の影響で,民族的自覚がもたれるようになり,素朴ながらナショナリズムが形成されてくる。その形は,自民族の過去の栄光を振り返るとともに,自分たちの言語を再発見することが共通している。民話集や辞典が編さんされ,合理主義のスポットをあててみれば,日常使用している言葉に文法があることに気づき,文法書が現れてくるのである。

【イタリア・ドイツの統一】イタリアやドイツでは地方権力が強く,国家統一は早くから希望されながら実現されなかった。19世紀の60,70年代をナショナリズムの時代と呼ぶのは,この2国が国家統一を果たしたことによる。イタリアの統一運動は1848年のミラノ暴動とオーストリアの三月革命を契機に,サルディーニァカルロ=アルベルトを中心にして進められた。当時,ヴェネツィア,ランゴバルド,ミラノなど北イタリアはオーストリアに所属していたので,オーストリア勢力をイタリア半島から排除することがイタリア統一の課題とされた。しかし,トスカナ,ナポリ,法王庁はサルディーニァに協力せず,サルディーニァは単独で戦うことになり,ノヴァラの戦いなどに敗れ,カルロ=アルベルトは退位した。即位したヴィットーリオ=エマヌエーレ2世は首相にカヴールを起用し,その政策によって国力を充実させるとともに,国際的協力が得られるように配慮した。そのころイタリアでは,サルディニァを中心にするイタリア王国のほかに,法王を中心にした連邦方式,カルボナリ党の流れをくむ共和制の樹立の三つの統一様式が考えられ,対立していたが,サルディーニァの国力増加によって,サルディーニァ方式が現実性をおびてきて,イタリア人の支持をうるようになった。1859年,前回の失敗を教訓にして,プロンビェールの密約でフランスの援助をとりつけ,協力してオーストリアと戦った。フランスのナポレオン3世にしてみれば,戦果をあげて人気を高め,法王庁を保護することで,カトリック色の強い農民の支持を確実にしようとしたのである。1859年6月4日,フランス-サルディーニァ連合軍がミラノ西方のマジェンタで,24日にはソルフェリーノでオーストリアを破ると,統一されたイタリアが南方に出現するのをおそれたナポレオン3世は,イタリアを裏切ってオーストリアとヴィラフランカで単独講和し,ロンバルドをオーストリアから得て,これをサルディーニァに与えて停戦させ,かつ自分の外交上の勝利にしようとした。イタリア統一は挫折したかにみえたが,ナポレオン3世の行為はイタリア人を刺激し,辞職していたカヴールも首相に再任され,中・南部地方で統一を進めた。一方,共和主義者のガリバルディ千人隊を率いて,シチリアのサレルモを解放し,南イタリアに上陸してナポリに入った。サルディーニァ軍とガリバルディ軍の衝突は,理念よりも統一が優先するとして,ヴィットーリオ2世に占領地を献上したガリバルディの処置で回避され,1866年の普墺戦争の結果,ヴェネツィアなどを回収して,1871年,ローマを首都としたイタリア王国が,ローマ帝国以後の分裂に終止符をうって出現したのである。ドイツの場合には,1648年のウェストファリア条約で分邦主義が決定的になっていた。19世紀初め,ナポレオンによって,ある程度の整理が実現されたが,なお約40の小邦が乱立していた。統一への国民的願望は強かったが,その中心になるのは伝統的なオーストリアと新興のプロイセンとみなされていた。オーストリアは連邦による統一を考え,自国内の非ドイツ人をも含めようとした。これを大ドイツ主義といい,オーストリアを排除して,ドイツ人のみの統一君主国を考えたプロイセンの小ドイツ主義と対立した。プロセインを中心にした関税同盟の成立は,政治統一に先行した経済統一で,ドイツ=ブルジョワジーの期待に応え,プロイセンを優位にした。その後,オルミュッツの屈辱で,プロイセンの優位は一時,後退したが,ヴィルヘルム1世が即位すると,ビスマルクを首相にして,統一の実現を期した。ビスマルクは鉄血宰相と呼ばれたほど,軍備の拡張・整備に力をいれた。それは,オーストリアの排除のため,また隣国に統一された大国の出現をよろこばないフランスの妨害を除くには戦争を避けられないと判断したためである。また,統一のための戦争に干渉することが予想されるイギリスとロシアが,トルコをめぐって対立していることも利用し,両国とそれぞれ親善関係を保つにつとめた。1866年,対オーストリア戦争を行い,七週間戦争の別名のごとく,短期間にこれをくだし,プラハ条約によって,ドイツ統一からオーストリアを除くことを認めさせ,翌1867年,統一の基礎となる北ドィツ連邦を樹立して,その盟主となった。ついで,1870年,スペイン王位問題からエムス電報事件がおこり,対フランス戦争が始まった。モルトケが指揮をとるプロイセン軍はメッツに,ついでセダンにフランス軍を破り,ナポレオン3世は捕虜になった。フランスはなお抵抗したが,戦争中の1871年1月18日,ヴェルサイユ宮殿において,プロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝就位が行われ,ドイツは初めて,真の統一国家となった。ドイツ帝国は邦国が解消して成立したものではなく,外交権や交戦権はもたないが,邦国としては残り,プロイセン王が皇帝になることを憲法で定めている。皇帝が帝国首相を任命することや上院議員の定数配分などの点で,プロイセンの優位が確定しており,プロイセン=ドイツの出現といえるものであった。イタリア,ドイツのナショナリズムの完成は,それまでの国際均衡に変化を生じさせた。イギリスなどと比較すれば,遅れていた両国では,国家的充実のナショナリズムというより,統一国家の実現となって現れたのである。

(1/2:続く)

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