●名子・被官制度 なご・ひかんせいど
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【名子制度】名主などに隷従する農民で,生産手段,住居などを貸与される代わりに名主などの命じる労役に従った。生活の全領域にわたってその管理下に置かれた。その内小作料の一部を労力で代償する慣行は,明治初年までつづいた。名子制度が比較的多く残された南部藩の研究者,森嘉兵衛氏は,中世的従属制と慣習制の残る名子制を,[1]郷土的家人名子,[2]血縁的家人名子,[3]奉公人譜代名子,[4]契約的借金名子,[5]社会的救恤名子とに分類している。東北諸藩の名子は,表百姓(高持)・水呑百姓の下に位置していたが,高持名子は準百姓として,水呑より上位に位置した。加賀より移住し漆器業も営む大家斉藤家(岩手県二戸郡荒沢村字石神)の名子は図のようになる。スケ(賦役)の問題から,大家と名子制度について1934年(昭和9)の実態を描いているが,大家族制内部で屋敷を与えるか否か,名子のコースの違いにより,スケも異なるわけである。東北諸藩の名子解放政策は知られているが,仙台藩,南部藩では,藩と名子主あるいは名子個人が礼金を出して名子解放を行っていた。しかし,逃散・一揆の多発に対し小農民自立策を基本政策とする藩と,名子主の利害対立の事例は多い。また藩が経済的に援助・補助したわけではないから,のちまで残った。【被官制度】地主,有力者に農民が隷従し,その作業(労役)に自らを提供する制度。被官制度の残った地域は,山間など劣悪な自然条件のほかに,領主が天領・旗本の地域という歴史的・社会的な条件の存在が特徴的である。近世の被官制度の研究地(小林平左衛門氏による上伊那郡南向村大草地区と,古島敏雄氏による下伊那郡大鹿村大河原地区)は,天領・旗本として江戸時代を過ごすが,この地つづきの両村には,太閤検地帳1591年(天正19)が残存する。小林氏のよった大草村は,1620年(元和5)村が天領と旗本領に2分される天領分が1678年(延宝5)の近世検地を迎えている。太閤検地に分附はなく,20筆やしきの小農民の独立百姓がいるが延宝検地では,與右衛門1人が26やしきから田畑全部全筆を名請けている。このような傾向は,他の耕地に及んでいる。日曽利耕地の香坂家の「所の代官」としての活躍が,太閤検地の小農民自立策を無視し,延宝検地を1人で名請ける事態となった。このような一人百姓は,一本免状としての御館被官地帯として下伊那郡南山郷の村々があげられる。延宝検地のない旗本領大草地区をみれば年貢割附帳は,一本免状に近い形態となっている。このような「所の代官」の天領支配地域には,御館(親方)の土地集積が著しい。被官制が貞享〜元禄期(1684〜1703)の村高掛り争動で大きく揺れ,信州中馬年季稼ぎなどで収入を得た被官が独立し,夥しい被官を解消する傾向は,全国的なものである。太閤検地論争が学界の争点となったが,1筆の分附もない大草日曽利地区と違い,古島氏の研究対象地の大河原村の太閤検地帳では,又三郎が30名の分附者をもつ。このような村には分附被官,小作被官の身代金,地代金の問題が出されることになろう。1798年(寛政9),大河原村前島家の被官庄九郎が,御館に用立てておいた219両と他に100両合計319両を出して8人の家族とともに独立した例を最高に幕末まで22件350両余の地代金・身代金の文書が前島家に残されている。このことを古島氏,有賀氏が図示されているものを別掲しておく。御館被官制度は天領に多かったが,私領の場合の例として古島氏により前島家と並べて紹介されている脇坂藩箕輪領殿村の1651年(慶安2)の宗門改帳では五介の門ノ藤左衛門は“門ノ”肩書きが被官に相当するが,年貢帳・検地帳・伝馬帳では,五介の“門ノ”藤左衛門が分附主として6筆をもち,宗門改帳と検地帳では逆になっている。宗門帳の“門”“被官”という表現が問題であるという一例として示すにとどめたい。図で北殿村の“門ノ”の宗門帳の記載が被官の残存地帯となっている。注目したい事実である。被官地帯で特色ある事例をあげれば“買養子”の証文としてしられる文書がある。1789年(寛政1)の金野村(現泰丘村)の一人百姓が被官46軒の全財産を大草村(上伊那郡中川村)惣左衛門に質入れた(職の質入れ)ときの被官役儀がしるされている。(この文書は,古島・関島・小林・有賀の著作に紹介されている)その他御館の子で被官として分家し,のちに御館になった例や被官が増えていく例(下村−現千代村−松島家)などが指摘できる。“被官争動”としては,1701年(元禄15)年,貢直納の本百姓を1年に3〜4人ずつ御館の日手間として勤めさせる役儀の不当を,大河原村の37名の草生百姓が千村役所へ訴えたが敗訴となったという記録がある。1746年(延享2)の訴状に,1678年の検地時〈分附百姓共儀は御検地御役人之前を恐れ善五郎(前島家)を相頼御改を請申候其節右善五郎謀斗を以分附之百姓共家来同前に取潰し候〉(古島,関島両氏著『御役労働制の崩壊過程』345ページ)として集団で訴えたが敗訴となった。1793年(寛政4)の争動も被官側が敗訴となり,130人に過料金50貫文が課されている。その後幕末の1864年(元治1)の裃(かみしも)騒動まで抗争はつづけられている。1860年(安政7)の南山(みなみやま)騒動では〈一人百姓之被官共先規仕来(せんきのしきたり)を相破り御上様(おかみさま)御気に入侯者を内々相頼み繕(つくろ)ひ候得者,願筋早速御用ひに相成候故,主人を疎に存じ,我侭押(わがままおう)領致迷惑仕候間,右様之義無之様,先規仕来(しきたり)通り御歎願奉申上候御事〉(『伊那史料業書』394ページ)とあるように一人百姓が騒動の主体となったため被官と小前の連帯は押さえこまれているが,白河領が被官解放令を出したため被官文書を焼きすてた一人百姓もあるほどであり,被官解放が一段とすすむことになった。1872年(明治5),壬申戸籍(じんしんこせき)の姓名作製時,50軒の被官が御館の姓名1字をしるした賜姓を戦後,集団改姓した例はしられているが,中川村桑原の大正期の小作騒動は被官地帯の新しい動きであろう。戦後,被官地帯は,自作農意識が乏しいことなどが嘆かれるが,庚申塔(こうしんとう)建設など村落共同体メンバーとしての動きも乏しい。しかし,御館の保護のもとに発達したとされる大鹿歌舞伎など伝統芸能の保存などがしられている。
〔参考文献〕木下彰『名子遺制の構造とその崩壊』1979,お茶の水書房
『農民解放の史的考察』森嘉兵衛
「近世農民解放の社会経済史的意義」1948,日本評論社
『日本僻地農村の研究』森嘉兵衛著作集3
『日本常民生活資料叢書』8,1973,三一書房
小林平左衛門『日本農業史の研究』1952,農業評論社
『古島敏雄著作集』1・3,1974,東大出版会
『有賀喜左衛門著作集』I・II・III,1970,未来社
『南向村誌』1966,南向村
『信濃史料』17
関島・古島『徭役労働制の崩壊過程』
堀口貞幸『近世南信濃村社会史』『伊那史料叢書(一)』1975,歴史図書社