●ナグリアメル
大洋州 バヌアツ共和国 AD
1960年代に当時のニュー=へブリデス諸島(現バヌアツ)のエスピリツ=サント島(単にサント島とも)で始まった民族運動。のちにバヌアツ共和国の独立にさいして分離運動となり,パプア=ニューギニア軍の軍事力を借りた新政府によって粉砕され消滅した。1906年から英仏共同統治下にあったニュー=ヘブリデス諸島では,一方で,反英・反仏の空気が醸成されながらも,必然的に英語で教育を受けた島民と,フランス語で教育を受けた島民とに二分され,一般に前者はプロテスタント,後者はカトリック教徒であった。第二次世界大戦後の1960年代に入ると,島民たちが換金作物や換金用の肉牛生産に力を入れ始めたため,それまで海岸近くの低地でココヤシ農園を経営していた入植白人は,下草を食べる牛や下草を刈る労働力の不足に直面し,それまで手をつけていなかった涼しい高地へ農園を移動しはじめた。
サント島の酋長の1人ブルクは,この白人の動きに対抗して,部下を率いてサント島東南部のヴァナフォ(Vanafo,島都ルーガンヴィルから東北約24km付近)のフランス企業所有地へ入植した。数年後に白人との混血のジミー=スチーヴンス,がこれに合流し,未開発地の白人による開発反対,伝統文化の復活,信仰の自由などを唱えるナグリアメル運動を展開し,数千人の島民がヴァナフォに入植するようになり,さらに北部諸島の村々にナグリアメルの旗が掲揚されるようになった。ナグリアメルは島民の間で男性のシンボルとされていたナンガリアの樹名と,女性のシンボルと考えられていたナムメレの樹名を組み合わせたもので,団結を意味するとしていた。
その間,スチーヴンスとブルクは,1967年に他人の土地への不法侵入を繰り返した罪で逮捕され有罪となったが,そのことはナグリアメル運動をさらに盛んなものとし,1971年,スチーヴンスは国際連合に英仏共同統治の非を訴え,独立を嘆願した。ところが当時,ニュー=ヘブリデスに“自由郷”のようなものをつくろうとするアメリカ人の投資家グループがあり,彼らは島々で広い土地を買っては細分化し,ハワイや本土のアメリカ人に転売しながら資金づくりをしていたが,スチーヴンスたちはこのアメリカ人投資家グループや,一部のフランス人入植者から資金援助を受けていた。
1971年に,のちにバヌアアク党となるニュー=ヘブリデス文化協会が設立され,1975年までには主要な政党が次々と設立されて,自治拡大や独立を叫び始めた。そのなかで,ニュージーランドやオーストラリアで教育を受けたプロテスタントのインテリ青年を中心としたバヌアアク党がしだいに最大の勢力となりつつあった。1975年12月,フランス人入植者寄りのニュー=ヘブリデス自治運動党と連合したナグリアメルのスチーヴンスは,1976年4月1日をもってサント島と一部周辺諸島とによる“ナグリアメル=フェデレーション国”を独立させると宣言したが,これは他党はもとより英仏両国の支持を受けられず実現しなかった。
1979年11月,翌年の独立を控えて総選挙が行われ,バヌアアク党は反対党の地盤とされていたサントとタンナ島でも多数を占め,圧倒的な強さを示した。民族主義的傾向が強く,しかも,英語で教育を受けた者が主体のバヌアアク党主導の独立に危惧を抱いたサント島のフランス系入植者と,混血バヌアツ人は,翌1980年に入ると,ナグリアメルと組んで,サント島をバヌアツから分離したヴェマラナ共和国として独立させることを試み,ルーガンヴィル市にヴェマラナ国旗を掲揚した。そればかりか,独立3カ月前の5月27日には,地区行政官と数人の警察官を人質として,ヴェマラナ共和国暫定政府樹立を宣言するなどの挙に出たため,バヌアアク党支持者およびイギリス人,オーストラリア人,ニュージーランド人など約2,000人が首都ポート=ヴィラ(エファテ島)に避難した。
1980年7月30日の独立当日にはバヌアツ自治政府の要請により数日前に到着したフランス人のパラシュート部隊と,英国海兵隊に守られて,ルーガンヴィル市でもバヌアツ国旗が形式的に掲揚されたが,この時点でもフランス系入植者たちは,サント島のバヌアツ共和国からの分離の可能性を信じていた。しかし8月中旬,バヌアツ新政府の要請で,パプア=ニューギニア軍がルーガンヴィルに進駐して英仏両軍は引き揚げ,サント島分離運動に対する掃討作戦が開始された。パプア=ニューギニア軍は,9月1日,ヴァナフォ村を占領してスチーヴンス以下数百名を逮捕し,バヌアツ新政府は,分離運動に関係したすべての白人を国外退去させた。ここにおいてナグリアメル運動は消滅し,エファテ島に避難していたバヌアアク党支持の島民も無事に帰島した。
ナグリアメル運動は,一種の民族主義運動として始まったが,バヌアアク党の伸長に対抗するため,アメリカ人投資家やフランス系入植者との提携を強め,さらにバヌアツ諸島内に領土を確保しておきたいとするフランス政府の植民地政策にも利用されて,バヌアツ共和国独立にさいしての分離運動と化して終焉を迎えた。