●長塚節 ながつかたかし
アジア 日本 AD1879 明治時代
1879〜1915(明治12〜大正4)歌人・小説家,号※注1※芽(たらめ),青果。茨城県岡田郡国生村(現,茨城県結城郡石下町大字国生)に豪農の長男として生まれた。幼時,神童のほまれ高く,地元の小学校を首席で卒業したのち,茨城県尋常中学校(現,水戸一高)に入学したが,4年進級後,脳神経衰弱のために退学し,療養に過ごすかたわら,郷里の田園自然に親しみ,文芸への関心を深めていった。1898年(明治31),正岡子規の『歌よみに与ふる書』『百中十首』を読んで,子規の写生説に感激共鳴し,1900年3月,根岸庵に子規を訪ねて,直接教えを受けることとなる。同門の根岸短歌会には,伊藤左千夫,岡麓,香取秀真,赤木格堂らがいた。初めは,『万葉集』や「紀記歌謡」の研究に没頭して,万葉調の作歌をもっぱらとしていたが,子規の没後も,師の唱道した写生主義を発展させて『初秋の歌』(1908)にみられるような,澄明透徹した写生による,独自の歌風を形成した。一方,1903年ころから散文の制作も手がけて『炭焼きのむすめ』(1906),『佐渡が島』(1907)の写生文を発表し,注目された。1908年,処女小説『芋掘り』を世に問い,1909年『開業医』『おふさ』『教師』1910年『隣室の客』『太十と其犬』の短編をいずれも「ホトトギス」に発表,同年6月から11月まで,長編『土』を東京朝日新聞に連載した。代表作となった『土』は,作者の郷里における貧農一家のできごとを中心とした作品である。当時の農村の自然や年中行事を克明に描いたもので,近代農民小説の,古典的作品とされている。1911年には,婚約者との縁談もあったが,喉頭結核が発病したため,これを破棄し,1912年以降,毎年九州帝大医学部に出むいて治療を受けた。その間,「鍼の如く」231首の秀作を「アララギ」に発表し,気品と冴えの歌境を開拓したが,再起できず,36歳で病没した。
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