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●中山道 なかせんどう

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 1602年(慶長7),徳川幕府が制定した五街道の一つで,1716年(享保1)に中山道と書くよう命ぜられ,『御触書寛保集成』に,〈東山道の内の中筋の道に候故に,古来より中山道と申事に候〉とある。江戸の西北の板橋宿を第1宿として,武蔵,上野,信濃,美濃の各国をへて近江国の守山宿まで67宿,守山から東海道の草津,大津の両宿をついで京都に達する。中山道は67次,江戸から京都までは136里弱で,東海道は53次・126里余であるから約10里長い。東海道を表街道とすれば,中山道は中部山岳地帯をとおるいわば裏街道で,碓氷峠,和田峠のような峠道が多く,各宿の伝馬も東海道の100人・100匹に比べて半分の50人・50匹,しかも木曽11宿では25人・25匹であった。参勤交代で利用する大名は,『道中方秘書』によれば30家,東海道を並用する大名をあわせても38家にすぎなかった。しかし,人馬の往来が疎で,しかも大河川もなく通行の渋滞が少ないので,かえって利用されることが多く,必ず片道は中山道をとおることになっていた二条城番,大坂城番,日光例幣使はもとより,14代将軍徳川家茂の夫人となった皇女和宮をはじめ皇族や公家の姫君の輿入れ行列も,この道を江戸へ下った。参勤交代では,加賀の前田家の通行が一行2,000人に達する大規模なものであったが,1861年(文久1),尊王攘夷運動のさなか公武合体の象徴として東下した仁孝天皇の皇女和宮の一行は前代未聞の大行列であった。上松(あげまつ)から藪原のあいだでは,助郷などの人足2万7,000余人,馬770余匹を使役したといわれ,遠く他国の村々までも臨時の助郷役が課せられた。1864年(元治1)3月,常陸筑波山に挙兵した水戸の天狗党は,元家老で尊攘派の志士武田耕雲斉に率いられ,冬の中山道を西上,12月越前敦賀にて加賀藩に降伏した。1868年(慶応4)1月,草莽の志士相楽総三に率いられた赤報隊は,年貢半減を掲げて東下したが,“偽官軍”として下諏訪にて処刑された。すぐそのあと,岩倉具視の子具定を東山道鎮撫総督とする明治新政府の官軍がこの道を東征した。〈木曽路はすべて山の中にある〉にはじまる島崎藤村の『夜明け前』は,このあわただしい幕末維新期の中山道を舞台とした人々の動きを,馬籠(まごめ)宿の本陣を勤める父島崎正樹をモデルとする草莽の国学者青山半蔵の眼をとおして描いている。明治政府の東京と京阪神を結ぶ幹線鉄道敷設は,初期の軍事上安全な中山道経由の計画から,経済上有利な東海道線敷設へとかわり,北関東の繭と諏訪地方の製糸業が鉄道で直結するのは1905年(明治38)のことである。中央線(東京−塩尻−名古屋)の全通は1911年(明治44)となり,東海道線におくれること22年である。江戸時代,中山道を記したものには,貝原益軒の『木曽路之記』,安藤広重,溪斎英泉の『木曽街道六拾九次』,秋里籬島・西村中和の『木曽路名所図絵』,十返舎一九の『木曽街道続膝粟毛』などがある。また,現在歴史的町並みとして保存されている妻籠(つまご)宿や奈良井宿からは,往時の繁栄をうかがうことができる。関所は碓氷(横川)と木曽福島にあった。2カ所おかれたのは東海道と中山道だけである。その宿場をあげると,板橋・蕨・浦和・大宮・上尾(あげお)・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄・新町・倉賀野・高崎・板鼻・安中(あんなか)・松井田・坂本・軽井沢・沓掛・追分・小田井・岩村田・塩名田・八幡・望月・芦田・長窪・和田・下諏訪・塩尻・洗馬(せば)・本山・贄川(にれかわ)・奈良井・藪原・宮ノ越・福島・上松・須原・野尻・三留野(みとの)・妻籠・馬籠・落合・中津川・大井・大久手・細久手・御嵩・伏見・太田・鵜沼・加納・河渡(こうと)・美江寺・赤坂・垂井・関ケ原・今須・柏原・醒ケ井・番場・鳥居本・高宮・愛知川(えちがわ)・武佐・守山であり,うち木曽11宿は贄川より馬籠までである。

〔参考文献〕児玉幸多『近世宿駅制度の研究』1957,吉川弘文館

地方史研究協議会編『日本産業史大系5中部地方篇』1960,東京大学出版会