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●長崎貿易 ながさきぼうえき

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【歴史的経緯】正確にいうと,江戸鎖国時代より明治時代まで,長崎を通じて行われた対外貿易をさす。江戸幕府は長崎を直領として奉行をおき,貿易を監督した。これは安土桃山時代から長崎を中心に貿易が行われていたこと,1570年(元亀1),大村純忠の女婿長崎純景がポルトガル人に長崎開港を約したことにもとづく。以後通年ポルトガル船が来航し,1580年(天正8),純忠が長崎とその付近の茂木をイエズス会に寄進した。1587年,秀吉はキリシタン禁令を出し長崎,茂木,浦上を直轄領としたが,貿易は財政刺激のため認めた。江戸幕府もこれを受けた。当初は長崎は朱印船貿易の中心となり,代官末次平蔵,町年寄高木作右衛門,荒木宗太郎,長谷川権六,村山等安らの地元商人が活躍した。幕府は出島をつくり,ポルトガル人を隔離し,鎖国後はポルトガル人を出島より追放。出島へオランダ人を平戸より移した。1641年(安永18)〜1855年(安政2),オランダ商館は出島におかれた。中国人に対しても散宿を禁止し,1689年(元禄2),唐人屋敷をつくって出島に移した。

【長崎貿易の実態】長崎を通じて行われた貿易は,相手国は中国・オランダ2カ国に限られている。貿易の仕方は次の通り。[1]白糸割符法(1603〜55)。輸入生糸(白糸)を糸割符商人と称する特定の特権商人の買入れ組合を組織させ,独占的に買入れさせた。初め堺,京都,長崎であったものを,のち江戸,大坂を加えて5カ所とした。[2]相対貿易法(1655〜71)。全くの自由貿易・自由取引。[3]市法商売法(1672〜84)。5カ所から目利をだして,中国船,オランダ船の荷物を鑑定評価させ,奉行所はその値段書を参考にして価格を決定し,その価格に外国人が同意すれば買いとらせる。[4]定高貿易法(1685〜1858)。中国船,オランダ船の荷物のうち,白糸の買入れは割符法に復し,その品物は相対売買としたもので,売上銀額を中国船は銀6,000貫目まで,オランダ船は3,000貫目までに限定した。この同割符会所は1698年(元禄11),長崎に改められている。したがって長崎奉行の管轄であった。[5]開港後の貿易法。1858年(安政5),日本・オランダ間の和親通商条約と貿易章程が調印され,長崎は貿易港5港の一つとなった。取引品目としては,生糸,絹織物,砂糖,薬種,雑貨などが輸入品,輸出品としては,金,銀,銅,俵物(煎りナマコ,干しアワビ,フカのひれ)などがおもなものである。そして鎖国以降その貿易額は増加しており,鎖国によって貿易額が減少したことはない。1858年(安政5)以降は日蘭和親通商条約と貿易章程によって貿易法が変わっている。