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●長崎 ながさき

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 長崎県長崎半島にある県庁所在地。九州西彼杵(そのぎ)半島と野母半島の結節部に位置する港湾都市で,古くは深津江(ふかつえ)などと呼ばれたが,鎌倉時代に平資盛(たいらのすけもり)の孫長崎小太郎重綱が来住し,子孫代々領有するに及んで長崎と呼ぶようになった。1571年(元亀2),ポルトガル船が初めて入港して以来,南蛮貿易の中心地となり,長崎純景(ながさきすみかげ)を女婿とした大村純忠(おおむらすみただ)は海岸沿いに島原,平戸,大村,外浦(ほかうら),文知,横瀬浦の6町の町割を定めた。その後,1580年(天正8),キリスト教隆盛の中で純忠が長崎,茂木をイエズス会に寄進したため,長崎は一時ポルトガルの植民地的性格を帯びるようになった。しかし,豊臣秀吉は1587年(天正15),九州平定の帰途,キリシタン禁止令を発するとともに,長崎,茂木,浦上を直轄領とし,鍋島直茂(なべしまなおしげ)を長崎代官に任じ,町の地子(じし)銀を免除した。さらに1592年(文禄1),唐津の城主寺沢広高長崎奉行に命じ,町の頭人高木,高島,町田,後藤の4人を町年寄として内町を支配させ,村山等安を代官に任じて外町の地子銀取扱方を委任した。江戸幕府成立後も行政機構は前代のままを踏襲した。奉行は初め1人任命され,のちには原則として2人になり,交代在番した。しかし,貿易・市政は複雑で,その処理はもっぱら代官,町年寄,乙名(おとな)などの地役人にゆだねられ,自治的な都市であった。1639年(寛永16)の鎖国令によってポルトガル船の来航を禁じたが,これよりさきの1635年には,外人取締りと貿易管理のため中国船の寄港も同所に限り,ついで1641年,平戸のオランダ商館を出島に移し,さらに1689年(元禄2)には唐人屋敷を設けて中国人の市内散宿を禁じた。貿易取引の際徴収した関税的性格をもつ口銭や掛り物は長崎の収入となり,そのなかから市民に筒所銀・(かまど)銀が支給されたので,貿易の盛衰はそのまま町の繁栄に響いた。町は1571年(元亀2)の開港当初は6カ町にすぎなかったが,17世紀初めには内町,外町合わせて32カ町,人口は15,000〜20,000くらいとなり,1696年(元禄9)には内町26,外町54,戸数12,057,人口64,523に膨張した。その後貿易制限や幕末の争乱などにより人口は減少し,天保(1830〜1844)から嘉永年間(1848〜54)にかけては人口27,000余になり江戸末期に及んだ。

 長崎はかつて日本で唯一の学術・文化輸入の門戸であったため,この地を発祥とするものは数多い。現在の長崎大学医学部は日本における最古の西洋医学に端を発するものである。そのほか江戸時代末ころから西洋の航海,算術,砲術,築城,地理などの伝習所も長崎に初めて開設された。陸・海軍の発祥の地でもあり,日本の洋式砲術の祖といわれる高島秋帆(たかしましゅうはん)は長崎の人である。1856年(安政3),江戸幕府がオランダ人を招いて開設した製鉄所が現在の三菱造船所の前身であり,そのほか印刷・写真・時計などわが国の近代科学や技術の輸入発祥の地である。

 長崎が貿易によって得た利潤は膨大なものであり,その一部は市民に分与された。それは貿易以外に生業をもたなかった長崎市民に対する幕府の優遇策であったと思われるが,実際の長崎は江戸,大坂に匹敵するという繁栄を示した。“おくんち”と呼ばれる諏訪神社の豪華な祭礼はその面影をとどめている。日本最古の石橋である眼鏡橋など,橋や石畳道路の発達も外国貿易の恩恵によるものと思われる。そのほか,カステラ,しっぽく料理,中国料理など衣食住の面でも古くから独特の進歩をしてきたのは文化の伝統に由来するものであろう。

 また,長崎はキリシタンにゆかりの深い都市でもある。1597年(慶長2年2月)には26人のキリシタン教徒が磔刑(たっけい)になったのをはじめ,数千人の殉教者を出している。市内西坂町の26聖人処刑の地や大浦天主堂をはじめ,キリシタンの歴史を物語る遺跡が多い。