●ナヴァリノの海戦 ナヴァリノのかいせん
ヨーロッパ ギリシャ共和国 AD1827 オスマン帝国
ナヴァリノはペロポンネソス半島西南部の湾。1827年,イギリス,ロシア,フランス3国がギリシア独立の援助のため,ここでトルコ艦隊と交戦した。トルコは大敗し,列国のギリシア独立承認(1830)に一歩を進めた。すでにギリシアは1822年,トルコからの独立を宣していたが,トルコはエジプト太守の助力を得て陸海両面からギリシアを圧迫し,虐殺を行った。メッテルニヒとカースルレーは当初,ロシアに進出の糸口を与えまいとしてトルコによる制圧を望んでいたが,1822年,自殺したカースルレーの後をカニングが継ぎ,1825年,アレキサンドル1世が急死してそのあとにニコライ1世が即位すると情勢は変わった。カニングはスペイン干渉で示された,フランス,ロシアの提携を切断しようとしてロシア側と接触をはかり始めたが,ニコライ1世は南進策を進めようとしてこれを歓迎した。1826年,ペテルブルクで両国の合意が成立し,自主的なギリシア国家の実現につとめることと,トルコ軍のドナウ沿岸からの撤退とを要求に掲げた。また,フランスもヴィレール首相が,国内の自由主義者の要求をそらそうとしてこれに同調し,1827年,ロンドンで三国保護同盟が結ばれた。その年の10月,ナヴァリノ湾で3国の連合艦隊が,トルコ艦隊をほとんど壊滅させた。メッテルニヒは,外交的孤立とトルコの敗北で衝撃を受けたが,このあともロシアとトルコの戦争が再発し,1829年,アドリアノープルの和約でギリシアを自治国とすることなどを定める。ギリシア問題は,ウィーン体制を支えるオーストリアにとって死活問題ではなかったが,ロシアの南下策を促進し,オーストリア領内のスラブ民族の動きを助長したという意味では懸念すべき事柄であった。