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●内務省 ないむしょう

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 明治初期から第二次世界大戦終結直後までの75年間にわたって,警察・地方行政・土木・選挙など内政全般を所管した中央官庁。1873年(明治6)に大久保利通らの強い要望によって「国内安寧保護の事務を管理する」ところとして設置された。自由民権運動の高揚につれて,言論・集会・結社の取り締まりを強化して政治警察的側面を強め,1883年,山県有朋が内務卿に就任,その官僚閥形成の拠点となった。1885年の内務省処務条例によって9局に整備され機構が固まり,1947年(昭和22)に占領軍の命により解体されるまで,天皇制官僚機構の中核として君臨した。したがって内務大臣は内閣の中心的地位を占め,地方行政・警察・神社・選挙・土木・衛生・都市計画・地理・出版・著作権・拓殖などに関する事務を管理し,北海道庁長官・府県知事を監督した。また内務省警保局・警視庁・府県警察部を中心に地方制度をその支配下におき,治安警察法,治安維持法など諸種の治安立法の運用を通じて言論・結社の取り締まり,選挙干渉・労働運動・農民運動など大衆運動の弾圧から,各家庭の大掃除,祝祭日の国旗掲揚の督励にいたるまで,国民生活の全般にわたって強力な統制を行った。

【内務省警保局】内務省の最も中核をなすのが警保局であった。したがってその局長は,内務次官,警視総監とともに,内閣の重要人事として扱われる。その事務分掌はいくたの変遷があったが,[1]行政警察に関する事項,[2]高等警察に関する事項,[3]図書出版および著作権に関する事項にまとめられる。

【内務省社会局】労働・社会行政を担当する中央官庁として1922年(大正11)に設置された。第一次世界大戦を契機として日本資本主義がいちだんと発展したが,それにつれて労働運動,農民運動が頻発し,さまざまの社会問題が生まれた。そこで,これまで各省に分散していた労働行政事務,社会行政事務をまとめて一括管理するためこれを内務省に設置し,警視庁・府県警察部などと連携して労働運動などに対し,官僚的統制を行った。1931年の改正により,労働・保険・社会の3部を設け,労働部は労務・労政・監督に分かれ,[1]労働に関する事項,[2]工場法施行に関する事項,[3]鉱業法中鉱夫に関する事項,[4]工場労務者最低年齢法施行に関する事項,[5]労働争議調停に関する事項を担当した。これは,1938年に厚生省が設置されるにおよんで,同省に移管された。

【内務省の解体】第二次世界大戦敗北後,占領軍は占領初期の日本の民主化政策として,軍隊の解散,財閥解体農地改革などを行い,また治安維持法などの言論思想弾圧法規の撤廃とともに,特別高等警察の廃止,内務省警保局・府県警察部部長の追放を行った。しかし,日本帝国主義支配機構の中枢であり,天皇制官僚の根城であった内務省それ自体に手を加えたのは,1947年になってからである。すなわち,日本国憲法の公布に対応して,裁判所・検察庁・法務省・警察など,一連の権力機関の改革がつぎつぎになされるとともに,内務省も解体され,新たな支配機構がつくられた。そのおもな権限は地方自治庁(1952年に選挙管理委員会などを統合して自治庁となる)や警察庁(1954年成立)などの機関に分散再編されたが,旧内務官僚の主流は新しい警察官僚などに転化し,今日でも依然として勢力を温存している。

〔参考文献〕大霞会『内務省史』全4巻,1980,原書房