●内閣制度 ないかくせいど
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行政権の最高機関あるいは中心的な執行機関で,通常は首相を中心にして組織されている。イギリスのように議院内閣制をとる場合が一つの典型であり,フランスやアメリカの大統領制のもとでの内閣制度は,フランスは議会による制約が強く,アメリカは大統領の諮問機関的性格が顕著である。日本の内閣制度は,1885年(明治18)12月22日,内閣職権が公布され,伊藤博文を総理大臣とする内閣が発足した。従来の太政官制が天皇を輔弼(ほひつ)する職務は太政大臣,左右大臣に限られており,実務を担当し事実上行政の実権を掌握している参議や卿は直接天皇を輔弼する立場になかったため,政府組織としては,有機的な一体性と能率性に欠けるところがあった。1890年(明治23)の議会開設を目前に立憲制に対応しうる政府組織が要請され,内閣制度が導入されることになった。ここに内閣は内閣総理大臣を首班とし,各省の長官である担当大臣によって構成され,各国務大臣が直接天皇を輔弼することになった。1889年(明治22),明治憲法が公布され,その第55条に〈国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス〉と,内閣が天皇に責任を負うことが明記された。このころから従来の内閣職権では,総理大臣の地位・権限が大きすぎるとの批判が政府部内からおこり,その年12月10日,内閣官制が公布されて,憲法の条文に対応するように各国務大臣は単独で平等に天皇を輔弼するものとされた。これ以後,新憲法の公布に伴って内閣制度の根本的改革が行われるまで,この内閣官制が存続することになった。しかし,現実における内閣組織は総理大臣の候補に組閣の大命が降り,その首相が国務大臣を選任して天皇が任命するという方法がとられたから,総理大臣の内閣内部における事実上の権限は決して小さいものではなかった。また,議会開設後は,政党勢力の発言権がしだいに大きくなり,日清戦争後には政党との提携・妥協なしには議会の運営は不可能になり,政党員が入閣して内閣を構成することが常態となった。1924年(大正13)の護憲三派内閣の成立から1932年(昭和7)の5・15事件によって犬養内閣が総辞職するまでの期間は,政党内閣が“憲政の常道”として成立し,ここに衆議院に第1党となった政党総裁が首相に推薦され,組閣する慣行が出現したのである。
このように政党勢力の比重は増大したが,後任首相の選出は専ら元老の手に握られ,さらに最後の元老西園寺公望の晩年には重臣が代わってその権能を行使した。また,1900年(明治33),軍部大臣現役武官制の規定が制定されたように,内閣を構成する陸・海軍大臣の選出はそれぞれ陸海軍の推薦にまたなければならず,たとえば1912年(大正1)の第2次西園寺内閣の末期におけるごとく,陸軍は大臣を推薦しないことで内閣の死命を制することができた。内閣は各省担当の大臣が中心であるが,特旨をもって内閣員に列することができる国務大臣の規定があり,必要な場合には無任的大臣を任命することができた。また,日中戦争勃発の直後に内閣参議を置いて,戦時体制に伴う重要国務に参画させ,あるいは1939年(昭和14),総力戦体制に対応するため,首相の各閣僚や官庁に対する指示権を強化したことはあったが内閣制度の枠組みを変えるものではなかった。第二次世界大戦後,新憲法の発布により内閣制度に初めて議院内閣制の制度的保障が与えられ,首相は国会議員のうちから国会の指名によって選定され,首相は内閣の首長として国務大臣を任命することになった。しかも,国務大臣は少くとも過半数が国会議員でなければならないため,議院内閣制は名実ともに保障されることになり,また内閣は,連帯して国会に対して責任を負うものとなり,内閣制度のあり方は戦前と比較して質的に転換したのである。
〔参考文献〕山崎丹照『内閣制度の研究』1942,高山書院
辻清明『日本官僚制の研究』1952,弘文堂
林茂・辻清明編『日本内閣史録』1981,第一法規出版