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●屯田(中国) とんでん

アジア 中華人民共和国 AD 

 中国の漢代から清代まで行われた国家的土地制度。国家が荒蕪地あるいは未開墾の官有地,さらには新たに征服した土地に,兵士または農民などを集団的に投入して耕作させ,防衛の拠点とするとともに,財源の確保をめざして設置した田土で,基本的には“且つ佃し(耕作し),且つ守る”というものであった。この場合,集団的に投入するといっても,耕作は兵士・農民の家族ごとに行われた。兵士によって耕作されるものは軍屯,農民によるものは民屯,あるいはのちには営田と呼ばれた。『漢書』によれば,戦国時代の秦の前4世紀の商鞅の変法以来,人民のあいだで土地の売買が行われるようになり,したがって人民による私的土地所有制が発生したといわれるが,屯田などは公田ともいわれるように,国家的土地所有と考えられ,この私的土地所有と国家的土地所有とが中国の歴史上併存したといわれる。しかし論者によっては,私的土地所有にも国家の規制が及び,したがってそれも国家の土地であると主張し,国家による屯田民支配と同じく,人民が一律に国家の奴隷的支配を受けるという意味で,唐代あるいは明代までを古代奴隷制社会であると説く学者もいる。

 屯田の始まりについては,史書によっては前漢昭帝のころという説もあるが,その前代の武帝のときにすでに,異民族に対抗するためのものとして張掖,敦煌といった国境地帯に置かれたらしく,その後,西域地方が漢の版図に入るに伴って,そこにも屯田が置かれた。これらは辺境地帯に設置されたものであったが,その後,前漢末の赤眉の乱を契機として,光武帝によって,内地にも置かれるようになった。後漢末の黄巾の乱によって群雄が割拠したが,そのうちの1人,曹操は人民が流亡して無主となった土地を国有地とし,そこに流民を強制的に定着させて1人に50畝程度の用地を分け与え,それを典農中郎将以下の屯官に管理させる民屯をつくり出すことによって,兵士および軍糧の確保を図り,これが魏王朝の成立・発展の大きな要因となった。呉,蜀にも屯田が行われたが,続いて成立した西晋では,屯田制は廃止されたらしい。しかし西晋はその代わりに占田・課田制を施行し,後者の課田は屯田の系譜をひくものといわれ,それがのちの均田制にひきつがれたとし,先に述べたように,屯田,課田,均田を一連の古代的な国家的土地所有とする説も有力である。また南北朝・隋代にも屯田はひきつづいて行われた。唐代に入ると,均田制と並行して屯田が設けられたが,辺境の地だけでなく内地にも置かれ,合計992所に及んだ。内地のものは民屯が多く,これはまた営田とも呼ばれた。そして,府兵制が崩壊し募兵制に変わると,営田が多く用いられた。北宋時代でも,屯田と営田が並存して用いられたが,後者は遼,金との抗争の関係で北辺各地に置かれ,一種の民兵である弓箭手によって耕作された。営田は南宋時代にはますます発展し,官有地を荘として耕作させたが,特筆すべきことは,唐中期の均田制の崩壊に伴って地主佃戸制が発達すると,営田の耕作者も佃戸が充てられたことである。遼,金,元でも屯田は盛んに行われ,とくに元では,中国征服以前から屯田を設けていたが,征服後も,中国人の民田を奪って各行省に屯田を設置し,それが元帝国の有力な物質的基盤となった。次の明代では,屯田は軍屯,民屯,商屯の3種に分けられる。軍屯は洪武帝が挙兵した当初,淮河・揚子江地帯に設けられ,のちに洪武帝が唐の府兵制にならって衛所制度を設置すると,衛所に屯田を置いて兵農一致が行われ,衛所屯田と呼ばれた。その後,中国内地を初めとして辺境地帯にも置かれた。商屯は,塩商によって辺境に設けられた屯田のことで,商人は開中法により軍糧を辺境地帯に運び,その代償として塩引を支給されたが,やがて辺境に屯田を置いて軍糧の納付に応ずるようになったものである。清代では,明の軍屯の流れをくむ衛所屯田が若干存在したにすぎないが,本来的にこの屯田は耕作者から遠く離れている国家のものであるので,つねに耕作者の耕作権が強くなり事実上民田化する傾向をもっており,それが大きな原因となって,1902年(光緒28)に衛所屯田は廃止され,法制上は全部民田となった。しかし民国時代になっても屯田の名称は残り,中華人民共和国になって屯田は名実ともに廃され,屯田農民たちは初めて解放された。

〔参考文献〕清水泰次「漢代の屯田」東亜経済研究14−3,4

西嶋定生「魏の屯田制」東洋文化研究所紀要10

青山定雄「唐代の屯田と営田」史学雑誌63−1

清水泰次「明初に於ける軍屯の展開とその組織」史学雑誌44−5,6