●敦煌 とんこう
アジア 中華人民共和国 AD
中国甘粛省の町。古来,中国より西域にいたるシルクロード上の要衝として知られる。中国より西域への出口であると同時に,西域より中国への入口でもある。東は河西回廊を経由して北京まで2000km,西はロプ=ノールをへてタクラマカン砂漠へとつづく。北はゴビ砂漠をへてモンゴル平原・南は祁連山脈・ツアイダム盆地をへてチベット高原がひろがる。中国の町といっても,内陸アジアの砂漠に張り出して孤立したオアシス都市であり,このような地理的環境が敦煌に国際都市として,きわめて重要かつユニークな意義・役割を与えることになった。【敦煌の歴史】敦煌の地名について後漢の応劭(おうしょう)は「大にして盛ん」という意味であるとするが,むしろ,ソグド語など外来語の音写であるという説が有力である。事実,漢代以前の敦煌は月氏,ついで匈奴(きょうど)などの遊牧民族の支配下にあった。しかし,漢の武帝が即位(前140)すると匈奴に対して断固とした強攻策に転じて,しばしば遠征軍を派遣してこれを打ち破り,この地方は漢の支配下に入ることとなった。こうして前93〜前92年ごろ,漢はここに敦煌郡を置き,酒泉郡・張掖郡・武威郡の3郡とともに河西4郡と呼ばれ,漢の西域経営の根拠地となった。これとともに,東西交通の要衝として大いに発展することになった。後漢滅(220)後,魏・晋・南北朝時代には,敦煌は,地方王朝の支配をへて北魏の領有となった(440)が,この時代には,とくに仏教が西域より流入し,曇無讖(どんむせん)・竺法護(じくほうご)などの高僧が活躍して,莫高窟や堂塔伽藍の建立・訳経事業の推進など,華やかな仏教文化が開花した。さらに唐代にも,西域経営の根拠地・国際都市として栄えた。しかしながら,吐蕃(チベット)の侵入によって(781),70年間占領されたのち,再び唐の領有を回復した。そのあとの敦煌は,西夏(タングート)・元などによって支配されるが,時代をへるにつれて,東西交通の要衝としての位地は下落していった。
【莫高窟(ばっこうくつ)】敦煌を世界的に有名にしている石窟寺院であり,千仏洞とも称される。ほかに,西千仏洞・楡林窟・水峡口窟があるが,なんといっても大規模かつ重要なのが莫高窟である。敦煌の町から南に約20km,鳴沙山の東側の山麓に600以上の洞窟があり,そのうち,仏像・壁画が存在するのは486窟であるという。莫高窟は前秦時代(366)に僧のラクソン※注1※,つづいて法良によって最初に創建され,その後1,000年にわたって掘りつづけられ,現在にみられるような大規模な石窟寺院群に発展していった。これらの石窟には,2,000体以上の仏塑像が安置され,壁には多数の仏画が描かれている。これらの壁画は初期のものには,仏伝・本生譚(ほんしょうたん)など,西域の様式の影響が濃いが,隋・唐以後は,釈迦説法図・浄土変相図など,中国仏教の影響が濃くなる。
【敦煌文書】莫高窟の名を不朽なものとしているのは,そこから発見されたおびただしい文書である。1900年第151窟の壁のなかに塗り込められていた文書が,ひびのあいだから道教僧王円ロク※注2※によって発見された。この噂を聞いて,西域探検に赴いていたイギリスのA.スタインが1907年に,翌年にはフランスのP.ペリオが敦煌にやって来て,莫大な古文書を持ち去った。そのほか,日本の大谷探検隊・ロシア・アメリカの探検隊も訪れて,古文書を持ち帰った。中国に残ったものも含めて,これらの文書の総数は総計で3万〜4万巻にのぼり,漢文のほか,チベット語・サンスクリット語・コータン語・クチャ語・ソグド語・西夏語・ウイグル語・モンゴル語などの各種の文書が含まれている。時代的には4〜10世紀ごろ,内容的には仏教文献が主であるが,ほかにゾロアスター教・マニ教・景教など,すでに滅んだ宗教の経典なども発見された。また,戸籍文書・土地文書など,当時の社会経済の状況を明らかにする史料なども発見され,それまで未解決だった学問分野の研究解明にも,おおいに貢献するところとなった。
![]()