●登呂遺跡 とろいせき
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静岡市にある弥生文化後期の代表的遺跡である。太平洋戦争末期の1943年(昭和18)軍需工場建設中発見され,静岡県の小規模な調査が行われ,また戦後日本考古学協会が正式調査し,国の特別史跡に指定され,遺跡公園として保存されている。遺跡は集落地区・水田地区・森林地区から成り西南に沼が開けていた。面積およそ9万9,000平方m,古代村落は,なお周辺に広がっていたと推定される。【集落】遺跡北方に幅50mの川が流れ,その南岸の自然堤防に東西に細長く営まれた。発掘した住居跡12軒,破壊された跡9軒,高床の倉庫跡8本柱1軒,4本柱2軒,住居は丸型・隅丸型・小判型など土堤で囲み,中央に炉,4本柱で草葺屋根を地上に葺きおろし,南に入口があり6〜7人が居住できる広さ,竪穴ふうであるが,床面が外部と同一平面で平地住居というべきだ。倉庫は校倉造,湿気を防ぐための高床式,また鼠害を防ぐため鼠返しが装備され,倉庫の1棟には床下中央に遊び柱が発見された。のちの伊勢神宮・出雲大社などにみられる神の憑る心の御柱(しんのみはしら)の祖型が存在した。
【水田】水田は集落の東南に6万余平方mにわたって開けていた。スギなどの杭・板で補強構築された畦畔で仕切られた50余枚の大小さまざまの水田があり,地区の中央には南北に通ずる水路によって両側の水田へ分水し,水位の調整をする堰や暗渠の設備もあって,弥生文化の農業技術を知る重要な発見であり,弥生文化として最初の水田発見だった。以後,福岡の板付遺跡をはじめ各所で水田遺構が発見されたが,それら弥生水田研究の基準となった。
【森林と沼】集落の西2カ所にかたまって樹木の根株が散在し,防風林をなし,また木製品の材料の供給源ともなったようである。樹種はスギ・シラカシ・イヌガヤなどで,その下に灌木・草本類も発見され,植物は自然・加工あわせて79種が確認されて,当時の村を囲む植生状態が明らかになった。また森の南には沼沢があり,北の川から小川が流れて沼に注ぎ,かたわらには杉板囲いの井戸もあった。
【遺物】出土遺物は土器・木器・金属器・石器・骨角器などおびただしく弥生農村の生活文化・農耕技術・土木技術の実態を明らかにした。土器は壺・甕を主体に椀・盃などで高杯形はまったくなかった。文様は櫛目文を主に縄文もあって,東日本と西日本の文化の交錯を示していた。木製品は数も種類も最も多く,日常生活の槽・椀・皿・杵・臼・キヌタ・腰かけ・発火器・織機・杉板の5絃琴・竹製のザル・草を編んだ莚・アンペラ・麻の布切れなど,農耕具では鍬・鋤から田下駄・田舟まで,建築用材の杭・柱・板や鼠返し・クサビにいたる細かい木具,祭祀具らしい鞘に入った木製剣・高杯も出土した。石器では磨製石斧や石錘,蛇紋岩の勾玉や扁平玉など量は少ない。ガラスの小玉も装飾品にあり,銅製品は腕輪やさらに小さい環,鉄は錆びた塊が出土したが形は不明,建築用材・畦畔材に丁斧の痕が認められた。骨角製品は鹿角製小刀の柄,釣針など生活の各方面にわたって豊富な遺物が出土し,日本古代文化研究上新しい発見も多い。
【遺跡の意義と保存】登呂遺跡は弥生文化後期初頭の2世紀から3世紀にかけての古代のムラであった。このころは『魏志倭人伝』に示されるように古代国家発生の重要時期にあたり,その古代国家の発生の基盤をなす古代のムラの実態を示す遺構であり,生活の姿を語る遺物を多く出土した重要な遺跡である。また学史上はじめて考古学の外関連諸科学合同の総合発掘だったし,戦後飛躍的に発展した日本考古学の原点であり,中心団体日本考古学協会の結成機運をつくった発掘であった。また戦後盛んになった遺跡保存の先鞭をつけ,復元建物・博物館を設け現地で遺跡とともに遺物を見得る遺跡公園として新しい保存の方向を示した。〔参考文献〕日本考古学協会編『登呂』1949,『同本編』1954,毎日新聞社
杉原荘介『登呂遺跡』1959,中央公論美術出版
森豊『登呂の記録』1969,講談社
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