●ドレフュス事件 ドレフュスじけん
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1894年10月,フランス参謀本部付のユダヤ人陸軍大尉ドレフュス(1859〜1935)が対ドイツ通牒の容疑で逮捕されたことに始まり,1906年の無罪判決にいたるまで12年間にわたってフランスの政治・社会を揺るがした事件。1894年9月,フランス諜報部員がパリのドイツ大使館の紙屑かごからもち帰った紙切れのなかから,提供されるべき機密書類の明細書がみつかった。参謀本部内からもれていると考えた陸相メルシエはじめ参謀本部は,筆跡からドレフュスと断定する。メルシエは有罪判決が軍の威信維持に役立つと考え,陸軍防諜部に命じて証拠書類なるものを作成させ,ドレフュス弁護側にはみせず軍法会議裁判官たちに読ませるという工作すら行った。ドレフュスは終始無実を訴えたが,同年12月に軍法会議は彼の有罪,南アメリカのフランス領ギアナの悪魔島での終身懲役をいいわたす。1895年1月5日,士官学校練兵場でドレフュスの位階剥奪式が群衆のみ守るなかで行われ,2月にフランスからギアナ送りとなった。普仏戦争(1870)とその敗戦によるアルザス・ロレーヌの喪失,しかもドレフュスがそのアルザス生まれのユダヤ人であること,こうした道具立ては対ドイツ復讐の排外主義をかきたてるのに格好のものであった。1895年1月に駐仏ドイツ大使は反ドイツ=キャンペーンについて大統領ペリエに抗議したほどである。1895年7月以来参謀本部情報部長となったピカール中佐は,偶然にも,スパイの嫌疑で調査中のエステラジー小佐の筆跡とドレフュスの手になるとされていたかのボルドロー(機密書類の明細書)の筆跡との酷似に気づく。1896年8月,ピカールはその疑惑を参謀総長に伝えるが,軍上層部はこれに消極姿勢をとり,さらにピカールの部下アンリ少佐の偽造書簡によって彼の主張は弱められてしまう。しかしピカールは,チュニジアに左遷される前に友人の弁護士に彼の確信の記録を委ね,これが再審要求の先頭に立つことになる上院副議長ケストネルに伝わる。ドレフュスの兄マチウの努力でユダヤ人詩人ラザールが『裁判のあやまり』と題する小冊子を著すのと前後して「エクレール」紙が軍法会議のさいの証拠書類の一方的通報を暴露し,また「マタン」紙はボルドローの複写を掲載した。こうしてジャーナリズムを媒介にしだいにドレフュス問題が人々の意識をとらえていく。1897年11月にマチウはエステラジーを真犯人として告発するが,翌1898年1月,軍法会議はエステラジーの無罪をいいわたし,逆にピカールが告発を受ける。ここにおいて,クレマンソー・ジョーレス・ペギーなどとともに再審論を展開していたゾラが「われ弾劾す」と題する大統領あての公開状を「オーロール」紙1月13日号のトップに発表する。ゾラは誹謗罪に問われ,有罪となったためロンドンに亡命することとなるが,この公開状は大反響を呼び,人権擁護同盟による再審派知識人の活動が始まる。8月にはアンリの文書偽造が明らかとなり,彼は自殺する。ようやく同1898年10月の破棄院による再審請願受理をへて翌1899年6月に同院は軍法会議の再審を命じる。しかしこのあいだに,軍部の保身・独行を批判し,正義・人権擁護を主張する共和主義者・社会主義者などから成る再審派・ドレフュス派と,ユダヤ人陰謀説を唱え,軍の威信・面子を守ろうとする王党派・国家主義者・カトリックらの反ドレフュス派のあいだの激しい言論戦は国論を二分し,深刻な政治的・社会的対立をもたらした。再審軍法会議は1899年8〜9月,パリから遠く離れたレンヌで開かれたが,軍上層部の圧力のもと,情状酌量による減刑付きの有罪判決であった。大統領令による特赦を受けて自由の身となったものの,無罪が確認されたのは1906年7月の破棄院によるレンヌ軍法会議判決の破棄によってである。事件は落着し,ドレフュスは叙勲され,ピカールともども軍籍を回復した。しかしこの事件は,社会主義者の第三共和政の枠組への統合,軍部の非政治性の相対的強化,反教権主義の拡大など,以後の政治・社会のありように大きく作用した。
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