●奴隷廃止運動 どれいはいしうんどう
北アメリカ アメリカ合衆国 AD
アメリカの南北戦争をおこす最大の原因となった運動で,アメリカの良心的な側面をよく表現している。【独立革命をめぐって】北米のイギリス植民地では,早くから奴隷貿易によってアフリカから黒人たちが連れてこられた。これは中米や南米への広汎な大西洋奴隷貿易の一環をなすもので,各植民地ごとに労働力不足を補うために,黒人奴隷を輸入するようになった。その後,各植民地ごとに奴隷制度を合法化するようになり,1641年のマサチューセッツをはじめとして,北部南部を問わず動産として奴隷を使う制度を認めることになった。しかし,北部は産業形態が大量の奴隷を必要としなかったので,奴隷人口はタバコの栽培を中心としたプランテーションをもつ南部の農業地帯に多くなった。
このため独立革命が始まって自由主義的な風潮が高まると,北部各地では連動して奴隷廃止運動が盛り上がった。独立宣言書が公布される前年の1775年に,アメリカ最初の奴隷制反対協会が,クェーカーたちを中心としてフィラデルフィアで結成され,ベンジャミン=フランクリンは,そのなかで指導的な役割を果たしている。それまでは個人的に反対意見を述べる程度だった運動が,このときから組織としての効果をあげるようになったのである。
【奴隷廃止運動の各段階】こうした風潮の影響を受けて,独立革命の収束期に,北部各州は次々に奴隷制度の漸進的廃止を決定した。18世紀の終わりまでに,北部各州はほぼ廃止の見通しをつけているので,ここまでを奴隷廃止運動の第1期とすれば,19世紀に入ってからの約30年間を第2期と考えることができよう。
この時期は,国際的に奴隷貿易について廃止の世論が高まったという特色がある。西欧諸国は,ほとんどが利の多い奴隷貿易に従事していたが,1802年にデンマークが,1807年にはイギリスが,1819年にはフランスが,それぞれ奴隷貿易を禁止した。アメリカでは3代目大統領トマス=ジェファーソンが,1807年に禁止の法案を通過させ,翌年から発効した。しかし,奴隷貿易は禁止しても奴隷制度そのものを禁止しない限り,かえって,密貿易による奴隷価格の高騰という結果を招くことになり,事実南北戦争まで密貿易が絶えなかった。
1787年に制定された北西部法令によって,オハイオ川以北の地に奴隷制度は認められなくなったので,この建国当時,奴隷制度の拡大を防ぐ意見が,これだけの実効をもつほどになっていたのである。この結果,オハイオ川によって南北に分かれた土地の対立が,しだいに激しくなった。
【すべての運動が合流】第3期に入ると,奴隷制度の賛否をめぐる動きは急速に高まった。南部各州は,タバコのほかに綿花の栽培が盛んになり,“綿花王国”ということばが生まれたほどで,イギリスの産業革命を支える原料としての綿花がここで栽培され,綿花はアメリカ最大の輸出産業となり,そのための労働力として,奴隷の数が南部ではますます多くなった。奴隷反乱はそれまでにもおこっていたが,1831年にヴァージニアでおこったナト=ターナーの反乱は空前の大規模なものとなり,奴隷所有者たちの奴隷に対する取締りは,いっそう厳しくなった。同年ウィリアム=ギャリソンは,奴隷廃止をめざして「解放者」を発刊,さらに1833年には,彼が中心となって全米奴隷制反対協会を設立した。さらに,南部の奴隷を密かに北部へ逃そうとする地下組織が各地につくられ,逃亡奴隷たちを助けた。自ら逃亡奴隷として成功したハリエット=タブマンは,19回も南部へ潜入して約300人の奴隷を連れ出すことに成功し,女モーゼと呼ばれた。
1850年代に入ると,女性の権利拡張運動や労働者の待遇改善運動など,多くの運動が奴隷廃止のために合流して,社会の一大勢力となった。ただし北部にも,奴隷廃止論者を迫害する人たちがいたし,南部にも逃亡奴隷を助けようとする人たちがいた。南北という地域だけで簡単に色分けできるほど,単純ではなかったのである。