●奴隷制(日本) どれいせい
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原始奴隷制の無階級社会から、階級社会への移行にあたっては、世界史的にいって、あらゆる地域に多かれ少なかれ奴隷の発生を伴っている。共有にもとづく原始社会から私有にもとづく階級社会への移行は、原始社会の内部に動産の私有を発生させ、さらに土地の私有に及ぶものだが、この移行にあたって繰り返された氏族・部族・共同体間の戦闘での捕虜が奴隷発生の端初であり、やがてそれは、原始社会内部の階級分化によって拡大されていった、と考えられる。これは、洋の東西を問わない、人類史の文明社会への移行を示す普遍的な現象であった。
日本列島における奴隷発生を具体的に示す史料は一切存在しないが、日本最初の階級社会である3〜5世紀の古墳時代には、すでに「生口」と呼ばれた奴隷も発生していた。『魏志倭人伝』に、日本からの貢納品のうちに「生口」が登場しているからである。また、『古事記』『日本書紀』に現れる「奴」「婢」もまた奴隷であったと考えられるが、日本社会における奴隷の存在を、かなり具体的にとらえることができるのは、7世紀半ばの大化改新にもとづいて成立する古代律令体制社会に入ってからであり、これにつづく中世荘園体制社会までは、日本においても奴隷は社会にとって重要な意義・役割をもっていたが、戦国の動乱を通じて奴隷は解放されて農奴に転化し、近世幕藩体制においては、奴隷は中世の単なる遺制、残存物にすぎなくなってしまった。
古代の「奴」「婢」、中世の「下人」「所従」、近世の「譜代下人」「名子」「社官」が、日本の奴隷の歴史における具体的な存在形態であった。
世界史的にいって、奴隷制には次の三つの類型がある。その一つは、古典古代のギリシア・ローマに典型的に発展した〈剰乗価値の生産をめざす〉(マルクス)労働奴隷制、その二つは、西欧列強が占取・分割したアメリカ大陸に16世紀以降主として展開した〈世界市場のために作業する本来的植栽地制度〉(マルクス)としての、アフリカ黒人を奴隷狩りしてラテンアメリカに強制的に送りこむことによって成立した、プランテーション奴隷制(のちに北アメリカにも拡大)、さらに第三に、〈直接的生活維持手段の生産をめざす〉(マルクス)家父長制的奴隷制、これは、洋の東西にわたって普遍的に存在するが、とくにアジアの奴隷制の基本的かつ典型的形態であった。
【古代の奴隷】律令体制社会の国法である律令は、主として、中国の唐の律令にならって制定されたものであるが、そこにはかなり詳細の奴隷に関する規定が存在する。すなわち、この時代の人民は「良」「賤」の二つの身分に大別され、「賤」は、「陵戸」「官戸」「家人」「公奴婢」「私奴婢」(この5つを「五色の賤」と呼ぶ)の総称であるとともに、当時の奴隷身分にほかならなかった。
このように、当時の奴隷がいくつかに類別されるのは、主として「奴隷身分」内部における地位の上下を示すとともに、奴隷発生の経路・奴隷使役様式・奴隷所有者(国・官の如き公か私人か)の差違にもとづくものであった。
かかる「賤民」のうち「公・私」の「奴婢」がもっとも典型的な奴隷であって、財物同様に相続の対象となり、その所有者によって人格的に所有され、したがってまた売買されえたことは、律令の規定によっても明らかであるが、律令以外の当時の古文書からも「奴婢」のこのような性格を具体的に指摘することができる。
たとえば、749年の勅によって、諸国は、「奴婢」一人あたり約稲1,000束の価格で「容貌端正」な「奴婢」を買い求め、東大寺に貢進している古文書が現存しており、相続によって「奴婢」の主人が変わる事例も史料的に確認できるから、律令という法の規定が、古代日本社会の現実に対応しているとみなすことができる。
ところで「奴婢」が古代日本においてどれほど存在し、全人口に占める割合はどれほどかを確かめうるデータは存在しないが、2〜3の個別的事例が判明している。747年の「東大寺資財帳」によれば、「家人」の「奴」68人、「婢」55人、「奴婢」の「奴」207人、「婢」179人、すなわち、「家人」123人、「奴婢」386人が東大寺に所有されていた。また、筑前国の「大領」(地方官領)肥君猪手は、702年に、「奴」15人、「婢」22人を所有しており、より高度の中央官僚(貴族)は、さらに多くの「奴婢」を所有していたものと考えられる。
全人口に占める「奴婢」の割合は不明であるが、常陸国に限っては、判明する。8世紀後半から9世紀初めと規定される文書から、常陸国総人口約19万人のうち約2,000人、すなわち約1%と「奴婢」が存在していたことが最近明らかになったからである。常陸は、古代日本の辺境である東国(あづま)のうちでも、さらにその果てであり、奴隷制の展開度が畿内・東海・北九州と比べて未熟だったと戸籍研究から考えられるので、この1%の数値は最低レベルのものと判断すべきであろう。このことは、大和の東大寺一寺のみで先に指摘したように386人の「奴婢」と「賤民」としての「家人」123人を所有していた事実によっても明らかである。
だからといってもちろん、量的な意味での「奴婢」の比重を過大視することはできない。貨幣経済が未発達な当時の日本社会においては、ギリシア・ローマのごとき〈交換価値の生産をめざす〉発達した労働奴隷制を展開せしめず、人口の圧倒的大部分をしめる「良民」としての班田農民と併存・補完するものとして「奴婢」は、存在していたのである。古代日本の奴隷制の存在意義は、全人口に占めるその比重といった量的な面にあったのではなく、天皇が人民一般に対して絶対者として君臨するアジア的な〈総体的奴隷制〉(マルクス)の下における支配階級の家内経済にとって不可欠であったという質的な側面にあるのであり、それは、〈直接的な使用価値生産をめざす〉家父長的奴隷制にほかならなかったのである。
「奴婢」はいうまでもなく出生身分であって、その所有者である主人の恩恵による「放賤」なしには、「奴婢身分」から脱することはできなかった。律令制社会を通じて「放賤」の事例は乏しくないのであるが、他方では、非「奴婢身分」であった「良民」としての班田農民の階級分化によって貧窮な「良民」が身分によって「奴婢」に転落していく過程も進行した。日本の古代社会から中世社会への移行が、奴隷制の解体「奴婢」の消滅として実現されず、中世社会においても奴隷制がその基礎に根強く存続したのはこのゆえである。
【中世の奴隷】鎌倉幕府法制の根幹をなす「御成敗式目」(1232)の第41条に、主人を異にする「奴」と「婢」のあいだに生まれた子の帰属=所有をどちらの主人に認めるか、についての「子分け規定」が存在し、この規定は、16世紀後半の戦国大名家法にまで引き継がれている。このことは、日本中世社会の全時代を通じて「奴婢」が、無視しがたい存在意義を有していたことを示すものであり、この法の規定が、戦国末の農村においても生きた法として現実的に機能していた史実を確認できる。
鎌倉幕府法が、「奴婢」に深い関心をよせていたのは、その基礎をなす御家人(地頭)が、例外なく「奴婢」所有者であっただけでなく、在地領主としての荘官・名主・上層の百姓にいたるまで、広く「下人」「所従」(「奴婢」の中世的呼称)を所有していたからである。
このような「下人」の再生産は、「下人」同士の事実上の夫婦関係(それは「夜ばい」のかたちをとるのが通例であった)から生まれた子が、出生身分として「下人」とされることによって実現された。「下人」は古代の「賤」の後身であったが、古代の「良」の後身である中世の「百姓」は、中世農民の大多数をしめる基軸的な存在であったが、中世社会を通して絶えず進行するその階級分化(侍的存在への上昇と作人ならびに飢饉・負債・年貢未進を処理するための人身売買にもとづく「下人」への転落)によって、「下人」は、非「下人」から絶えず補充されていた。「謡曲」「狂言」等に「人買い船」「人買商人」がしばしば登場するのは、人身売買が広く行われていた中世的現実の文学的反映である。
戦国大名家法には、「下人」の本質とその具体的姿態をうかがわせる豊富な条項が存在する。これを分析するとき、中世「下人」の本質について、(1)他人の所有の対象、(2)下人の無所有=所有の非主体、(3)下人の被給養=非自立、(4)下人に対する被給養=非自立の強制、(5)苛酷な支配の甘受を抽出しうる。中世の「下人」が、奴隷身分にほかならないことは疑いない。なお、中世の「下人」を奴隷を含むものとしてとらえ、むしろ、農奴にひきつけて理解する見解が、中世史家のなかになお有力であるが、この見解は、中世史料に現れる「下人」の階級的実態と身分的本質を弁別できない謬見と思われる。
日本中世社会に存在した「下人」は、荘園領主・在地領主・名主・上層百姓という社会の上・中層の生活維持にとって不可欠な存在にあって、古代の「奴婢」の単なる残存ではない。日本中世社会における家父長制的奴隷制の存在意義は決定的である。
【近世の奴隷】豊臣秀吉の天下統一は、日本の古代・中世に存在していた奴隷制を根底的に解消させることとなった。1580年秀吉は1588年にさかのぼって一切の人身売買を禁止した。この禁令は徳川幕府にそのまま引き継がれた。それだけではない。戦国〜近世初期は、奴隷解放・奴隷の農奴化の決定的画期だと考えられ、秀吉・家康のこの時期の政策は、奴隷の農奴化を政策的にも積極的におしすすめるものであった。
中世末期には、「下人」の農民化=農奴化が事実上進行していたが、秀吉が全国的に施行した太閤検地は、現実に耕作している農民を検地帳に耕地保有者として登録する原則にいたって、農奴化しつつあった「下人」をも検地帳に登録し、近世の百姓に解放するとともに、「作あい」(小作料)否定の原則にもとづいて、「下人」の主人に対する中世的隷属を断ちきる政策を打ちだした。この政策は徳川期にも引き継がれ、1603年の池田利隆検地では、検地帳面に「小作名うけ」させる原則を定めているが、この場合の「小作」は中世では奴隷であった「下人」の農民化したものを含むことは実証的に確認されている。
それだけではない。近世でも17世紀には、「譜代下人」と呼ばれた、中世「下人」の残存が、地域によってその濃淡は異なるとはいえ、全国的に広くみられたが、この奴隷としての「譜代下人」についての、近世では政策的に解放され、奴隷から農奴としての百姓の推転が積極的におしすすめられていて、近世社会では、奴隷は中世的遺制・残存物にすぎなくなっている。
また、陸中・信濃をはじめとする辺境山間部には、近世期にも、「名子・被官制度」といわれる独特な土地制度が存在した。この制度は、奴隷制から農奴制へ移行する中間的な過渡形態であって、日本の奴隷制の解体過程を理論的・実証的に確かめる貴重な存在であって、「名子・被官」は土着奴隷であって、半奴隷=半農奴とみなすべきである。
近世では、奴隷としての中世「下人」にかわって、人身そのものを未来永劫にわたって売り渡してしまう人身売買にかわって、一定期間(10年が最長)の労働を果たせば、生家に戻れる年期奉公人制が確立し、日本の奴隷制はここに消滅した。
なお、現代の未解放=被差別部落の起源を、古代の「賤民」に淵源するとみなした1960年代までの通説は、1970年代にはいって急速な発展をとげた中世身分史研究によって批判しつくされ、もはや学問的には支持しがたい誤説である。