●奴隷制(中国) どれいせい
アジア 中華人民共和国 AD
ふつう奴隷制は家父長制的家内奴隷制と労働奴隷制とにわけられる。家内奴隷は主家の家族とともに労働し生活面すべての労働力として機能している。したがって,人格の否定は徹底化にいたらない。前近代の中国社会にみるように家内奴隷は「半人半物」(仁井田陞説)の扱いという程度の段階にとどまった。古代ローマのように商品流通が発達し,征服された民が労働力として導入されてくると,奴隷は人格を全く奪われ,家畜なみの財物として扱われるようになる。こうした奴隷を生産活動の基盤に置く社会制度が労働奴隷制である。他方,前者のように家内奴隷や小経営農民を生産の主体とする社会を家父長制的家内奴隷制社会という。史的唯物論では最初の階級社会が奴隷制社会として現れると考え,世界史の基本法則として,どの民族・社会においても普遍的にみられる社会制度と解している。ギリシア・ローマのばあいは典型的な労働奴隷制社会を生みだしたが,中国前近代社会ではこれと異なって,家父長制的家内奴隷制の形態でしか現れなかった。そして,小奴隷主をも含む全労働力が専制君主に直接把握され,収奪される体制となっていた。マルクスの『資本制に先行する諸形態』によると,こうした社会を総体的奴隷制と定義づけていたように読みとれる。このように,奴隷制のありかたは西欧と東洋とではかなりの程度ちがっているが,奴隷制を含むどのような範畴をもってアジアの古代社会を理解するのかが,日本・中国とも,研究者の大きな課題であったし,いまもなお論争がつづけられている。【中国の奴隷】秦・漢以降,文献上で奴隷は奴婢と通称されている。奴は男性,婢は女性である。またそのほか,奴僕・僮隷・家奴・蒼頭・蔵獲・駆口などがあり,呼び名は多様である。アジア国家の特徴として官奴婢が圧倒的多数のようにみえるが,実質的には私奴婢もけっして少数ではないであろう。南北朝から唐にいたる過程において,これら賤民のあいだには階層分化がおこって,それぞれの身分的扱いがちがってきている。たとえば唐代の官賤民では雑戸・官戸・官奴婢の順に身分差がある。このようにみると,唐代は旧来の奴隷制支配に動揺がおきていることが推察される。唐代は中国歴史における一画期であることがこの点からも理解できよう。ついで宋代になると,佃人・佃僕・雇人などの新しい身分階層が形成されてくるが,これらは封建的農奴とみられ,社会の生産主体であった。したがって,社会構成史的意味での奴隷制は宋代にいたって基本的には解消したと考えられる。
【奴隷の起源】中国においては征服による捕虜や犯罪にもとづく賤民への転落がおもな生成の原因となっている。このほか小経営農民であったものが債務によって奴婢となる場合も多い(例,『史記』彭越列伝)。債務奴隷は東方諸国の古代社会における一特色となっている。奴隷の生んだ子については家生子と呼称され,その身分は賤民に属し,子孫に受け継がれていく。
【奴隷の解放】上記,奴隷の解放条件は唐代の官奴婢を例としてみれば,赦免・廃疾・停年によるのがふつうである。私奴婢のばあいでは家長が家族員の連署を得て,官が認可する手続きをへて,初めて解放される。奴婢は新中国にいたるまで存在している。
【奴隷労働の種類】官奴婢のばあい,政府の諸司に配分されて役務に従うが,そのうちでも馬や豚などの畜類を飼養するもの,技芸による工匠的役務をになうものが多かった。私奴婢は家事雑用一般に使役されるが,農耕・紡織などの主産業に従うばあいがふつうであった。奴婢による奴隷的労働と,一般にみられる小作労働とがどの程度の比重で社会に位置しているか数量的に検出するのはむずかしい。
【日本における中国奴隷制論】戦後最もはやく秦・漢時代を奴隷制社会と規定したのは西嶋定生である。[1]西嶋旧説。氏によれば,奴隷制の成立は各民族の氏族共同体の崩壊の仕方やその置かれた条件によって,それぞれ独自の性質を付与されていた。中国のばあいでいうと,春秋・戦国期の生産力の発展を契機として,民族的共同体間の支配体制である周代社会の崩壊がおこり,そのなかに成立した家父長制的土地所有を基礎として家内奴隷制が成立すると解する。つまり氏族的共同体の分解は階級支配体制を形成するが,その支配者が家父長制的家内奴隷所有者である。彼らのもとには大土地が集積され,その場で家内奴隷が農業労働を担う。史料によると,家内奴隷制の外延に仮作民と呼ばれる小作が盛行しているが,それは中国社会においては共同体の残存が顕著であり,労働奴隷制まで純化されなかった所に生じたと理解される。世界史の基本法則で規定する労働奴隷制の貫徹が共同体的性格のつよく残存する中国では阻止されたものといってよい。史料に頻出する豪族・豪右・冠蓋などの名称の実態はこの家父長制的家内奴隷所有者であるが,氏によればその代表的存在は皇帝であった。皇帝は官僚を家内奴隷的隷従者として掌握し,かつ使役して一般農民を支配し,そこから租税・徭役を収奪した。このような意味で秦・漢時代は家父長制的奴隷制国家と規定できると主張した。[2]西嶋説批判。これに対して,西嶋説の論拠となった漢の高祖集団を分析し,高祖とその功臣たちがとり結んだ関係の表現である客・中涓・卒・舎人などの呼称の内実は家父長のもとにある家内奴隷の性格ではなく,単なる職名を標示するに過きず,そこに奴隷制的な主・客関係をみとめることはできないと批判したのは守屋美都雄である。さらに,家父長制的家内奴隷制を大枠でみとめるとしても,高祖-功臣間の主客関係は単なる階級関係だけではとらえられず,人間相互の信頼関係の裏うちがなければ高祖集団の団結力はなかったと指摘したのは増渕竜夫である。さらに浜口重国は漢代奴隷制説を批判し,漢代社会の生産的基礎は豪族にあるとはみとめがたく,小経営農民が圧倒的に優越しており,国家財政の基礎である租税を負担していた。しかも彼らは国有地を耕作していると考えられるから,まさに農奴と規定できるのである。それゆえ,中国の皇帝と小経営農民の関係はマルクスのいう東方諸国における地代と租税の一致という理論に適合的であり大地主と農奴との関係にほかならぬとした。浜口のこの見解は秦・漢時代を国家的農奴制と定義したものであろう。[3]西嶋新説。旧説に対する批判を西嶋は受けとめて,新たな方法視角で秦・漢時代を分析した。すなわち,秦王朝では商鞅ら改革派を登用して氏族共同体の解体につとめたが,それは分異政策・徒民政策などの具体策として実施された。前者では〈二男以上いて分財・異居しない者はその賦を倍にす〉るという法令によって,氏族共同体規制から単婚家族を分離させる意図をもつものであり,後者は旧勢力を在地から分離して,新開地に移す目的の施策であった。移民を集めて新しい村落である「里」をつくり,その民に爵を授けることによって,皇帝を頂点とする爵制的秩序をたてていく。これが秦・漢帝国の基本構造であり,礼的伝統観念の現れである年齢秩序(年齢による上下関係)と調和する爵制的身分制の確立にほかならなかった。このような体制は支配と服従の露骨な階級関係を緩和する機能を有効に果たすためのものである。すなわち,権力による人民支配は物理的力のみでは効果が少ないので,伝統的な共同体観念を利用しながら,民衆が何ら抵抗感なく皇帝に服従する機構を設定し,秦・漢時代でそれが基本的に成立したと西嶋説は主張する。浜口のいう,小農民が国家の基本単元とする説と増渕の階級国家論批判の双方に答える新しい中国古代国家論である。西嶋旧説では皇帝は豪族の最大のものであって,皇帝と豪族は本質的には同質の存在と考えていたが,新説では皇帝は唯一,授受者として公権力の源であり,支配の正当性をもつ存在となった。西嶋は前近代社会において,階級対立は露骨に顕現せず,身分制として現象するとみているから,新説は秦・漢時代を一種の総体的奴隷制社会と定義づけている感がある。[4]豪族共同体論。中国古代国家を奴隷制的専制国家として位置づけようとする傾向を批判しつつ,豪族を中心とする共同体を社会の基礎において,六朝・隋・唐時代をみるのが谷川道雄・川勝義雄らの見解である。すなわち,後漢社会の崩壊を画期として古代国家が中世国家へと変化するという説である。先行する漢代は〈自立小農民のかなりフラットな共同体関係からなっていた〉「里共同体」であると述べるから,漢代の社会的基礎は2次的な農村共同体だとみているようである。漢末の農民反乱によって,この共同体が崩壊し,その成員は土地兼併を行う豪族と没落する農民とに階級分化していくが,それは一円領主化傾向を示すだけでなく,郷邑を中心として新しい共同体が豪族の手によって再編されるにいたる。ここにみられる新しい共同体ではその中心位置を占める豪族が財力・武力で支配するだけでなく,むしろ共同体成員の「望」(信望される有徳者)として指導的地位を占めた。このように人格的支配を実現した豪族は国家の官僚的貴族へと上昇していく。民衆を彼らがこのように把握したのが,六朝・隋・唐の時代であり,中国の中世社会であるという。このように谷川・川勝説では中国古代史の軌跡を農村共同体→新しい共同体(豪族共同体)ととらえるから,氏族共同体の崩壊がまず総体奴隷制として発現する点は必ずしも否定しているようには思えない。しかし,史的唯物論に沿って中国史を跡づけるという研究史のありかたを批判的にとらえ,共同体の自己発展の側面に学説の重点を置いており,人間関係とそれを裏打ちする精神紐帯を強調する点は増渕説を継ぐものとみられよう。[5]二重構造説。西嶋・増渕両説の統一をめざし,個別人身的支配(皇帝の全農民支配)と共同体的支配とが二重構造として具体化したのが漢代社会であるとしたのは好並隆司である。漢代の担税者たる小農民は本源的な共同体所有が解体したのちの,しかも奴隷制がまだ支配的にならぬ以前の小農業経営形態にあたると『資本論』を援用しつつ考察した。漢代の小農民は周代の総体的奴隷制社会の崩壊のなかから成立するもので,奴隷制形成の過渡期として秦・漢時代を規定しようと試みたものである。[6]アジア的共同体説。多田狷介は先行する諸説を整理・批判しつつ,古代社会の小農民は好並のいうような〈古典的共同体の成員〉に比定するよりも〈アジア的共同体の成員〉とみなすのが妥当だと主張する。秦・漢社会の実態をみると,共同体内における個別経営はなお未成熟である。それゆえ,共同体はなおアジア的共同体の段階にとどまっていて,そのうえに専制的国家がそびえる形をとっているのである。だから,漢王朝はアジア的共同体を克服できず,その内部に生じてくる豪族の私的経営もまた,総体的奴隷制を克服する方向を含みながらも,これを超えられなかった。こうした対立状況が土地国有を基礎とする総体的奴隷制社会である唐王朝までつづいていると多田は展望する。[7]両ウクラード併存説。藤家礼之助の立論によると,西周末以降,共同体的土地所有が崩壊して土地の私的所有が始まり,家内奴隷制が発生する。豪族は多数の家内奴隷を駆使して大土地経営を行う。共同体内の小農民は絶えず,その小作人と化していく。このような共同体の性格は奴隷制と封建制の両ウクラード併存期に出現するのであり,秦・漢社会はこうした性質を保有している。以後,隋・唐時代まで本質的に変化はないが強いていえば,奴隷制は秦・漢時代に優位であり,封建制は隋・唐時代において優位であるという違いはあるとのべている。[8]国家的奴隷制説。渡辺信一郎によれば,中国古代社会には部族的共同所有にもとづく上級所有権が残存し,小農民の私的土地占有がこれと対立関係をもちつつも一元化されることなく,国家形成の段階において,国家的土地所有に転化していくのだという。そしてこの国有地を耕作する典型的小農民である均田農民はなお自立した小経営農として完成しておらず,均田制を媒介とする地代収取をつうじて国家に支配される存在にほかならない。そうした分析から隋・唐律令制国家を規定して,国家的奴隷制の最終段階と位置づけている。太田幸男も戦国以降,国家的土地所有制が成立するとみており,小農民の土地は占有段階にとどまっているとする。これは氏族的土地所有権が国家形成過程で国家権力に吸収されるためであるとするから,その点では渡辺説と同じである。しかし,個別家族による農業経営の形成過程だけを国家形成の基礎とすることは疑問だと渡辺説を批判する。そして,戦国期に小農民経営は成立しなかったのであって,共同体の枠内での生産活動としてとらえるべきだと考えている。中国古代では私的所有は発展せず,共同体所有が国家の手に集中されていくところに専制体制が成立するとみる点に太田説の特色がある。[9]総括。中国史における奴隷制をめぐる論争は古代史分期の確定のための作業として必要であり,各論者は総体的奴隷制・家父長制的家内奴隷制・国家的奴隷制などの概念によって,中国古代社会の本質に迫ろうとしている。奴隷制の概念はこのように史的唯物論に多かれ少なかれ依拠する研究者によって詳密化され,豊富な内容をもつにいたった。しかし,新しい状況を生みだしている世界史の現況からみて,古いパラダイムでは把握の困難な点が多々感じられるようになった。たとえば,旧来の理想化された社会主義社会の形象はけっして現実でないなどの事象がある。とりわけ史的唯物論でいうと,経済構造だけで上部構造を規定することができないのであって,文化人類学・社会心理学などの成果を積極的に導入する必要が生じている。
【中国における奴隷制論】中国の史学界では,革命達成を目的とする学問研究という特殊な前提が明確に存在しており,戦前の論争にもそれがみとめられる。時代区分論もそうした角度から提起されている。[1]郭沫若の説。彼の時代区分論は中国史の体系的把握の最初の試みといえよう。氏は殷代以前を原始共同体と規定し,西周時代を奴隷制社会,春秋以後を封建社会と把握する。青銅器の銘文などの新出史料を駆使して,経済学者の信じていた井田制の存在に疑問をなげかけ,それを基礎とする周代封建制説を否定した。[2]呂振羽の説。大胆な郭沫若説を批判したのは呂振羽である。彼は殷墟出土の卜辞などの分析をもとにして,殷の社会ではすでに奴隷所有者と奴隷の存在している階級社会と考えられるので,郭のいうように殷代社会の基礎に原始共同体があるとみることはできない。周代の社会は政治的封建関係が周王と諸侯とのあいだに成立しており,井田制は灌漑水路を随伴する耕地であって,諸侯の農奴がそこに配置されていると解した。こうして呂は周代が純粋な封建社会であるとして,郭の奴隷社会説を退けた。呂振羽説は呉澤・翦伯贊・茫文瀾らによって踏襲され,学界において有力な見解として認められた。[3]郭沫若の新説。『十批判書』という著作によって,彼は旧説を改め,井田制の存在をみとめた。しかし,井田に付属するたて・よこの線は単に耕地の経界線でしかなく,そこで働く耕作者は「衆」という呼称の奴隷にほかならぬとした。郭沫若はこのように,殷・周両社会は奴隷制社会であると規定するにいたる。彼のこの新説は侯外廬や李亜農らによって受け継がれることになる。郭説の特徴は史的唯物論の労働奴隷制段階の実現を殷・周時代に求めているが,侯説ではそのように典型的奴隷制の検証を中国社会に見出そうと意図するのではなくて,どのような奴隷制の形態が中国社会に実現しているのかという視角にもとづくものであった。侯外廬のアジア的生産様式論を中国社会に適用しようとする提起はここに生じている。アジア的生産様式そのものについてはすでに呂振羽によって,古代東洋における奴隷制の一変種とみなされ,その特徴が中央集権政府の官僚によって水利支配などが行われているところにあると考えられていた。侯外廬はこの見解を参照しつつ,郭説を継承したのであって,理論的には両者の結合を目的としたとみることができる。呂説と異なる点はアジア的生産様式を奴隷制の変種とするのでなく,古典的生産様式と並存する世界史の一段階を表示する範畴と考えていることである。すなわち,呂振羽は史的唯物論の単系発展説によるにたいして,侯外廬は世界史に複合発展をみとめたという大きな相違もある。こうして,彼は奴隷の存在の検証だけでなく,中国社会の,他の社会と異なる特徴を追求したことになる。そして,氏族制の強固な残存に注目して,世界史の一段階を位置づけたことは注意すべき成果であった。もっとも,郭沫若の奴隷制論は中華人民共和国成立後の中国歴史学界においても有力な説として評価は高く,1950年代の時代区分論争にも大きな影響力をもった。[4]1950年代論争。対立する見解はおよそ3種類にわけられる。その(1)は西周以降,封建制説(范文瀾・翦伯贊・徐中舒ら),(2)は春秋・戦国または秦・漢交替期以降,封建制説(郭沫若・楊寛・侯外廬ら),(3)は漢代奴隷制説(尚鉞・王思治ら)である。各説並列のなかで,奴隷制の終わりは春秋と戦国のあいだにあるという判断がほぼ定説化し,教科書にも採用されたが,他の説を批判しつくしたわけでなく,郭沫若の学界に占める権威による点が少なくないと思われる。[5]1970年代論争。文化大革命が終結し,史学分野でも自由な研究の雰囲気がみなぎり,業績の広汎な発表が認められるに及んで,研究者の論争はまた活発になった。その結果,古代史の時代区分論は50年代論争を受けて,6ないし7種の異なる見解が並立した。(1)西周封建制説(范文欄・翦伯贊・徐中舒ら),(2)春秋封建制説(李亜農・唐蘭ら),(3)戦国封建説(郭沫若・楊寛・田昌五・白寿彝ら),(4)秦以降封建説(金景芳ら),(5)秦・漢交替期封建説(侯外廬ら),(6)東漢封建説(周谷城ら),(7)魏・晋封建説(尚鉞・王思治・王仲犖・何茲全ら)。以上,中国社会の封建制成立問題は奴隷制の終焉とかかわるのである。70年代論争は一見50年代論争の繰り返し,または,詳細化とみることもできるが,新見解もあるので注目せねばならない。たとえば,王思治の論にみられる農村共同体の重視である。周代の封建制は原始共同体の最終の段階で,以後,奴隷制ないし封建制に展開する過渡期にあるものとみなす。この基盤の上に中央集権的な専制国家が成立する。この見解は郭説の影響を稀薄にする意味があり,侯外廬がかつて主張したアジア的生産様式論に近似する。[6]郭説批判。金景芳は奴隷制には2種類あるとして,労働奴隷制と東洋の家内奴隷制またはアジア的生産様式を挙げ,その二つに差異のある所は後者に土地私有制のない点であるとした。とりわけ,中国では家内奴隷が生産面で優位を占めていたという。[7]郭説支持。金説に対して侯紹庄は,中国の奴隷制社会の基礎には農村共同体が存在するが,それは中国社会にのみ特有のものでなく,原始社会末期にあたる世界史上に普遍的に出現した性質のものである。それが専制支配のもとに統合されると共同体成員のままで奴隷化されるのである。そして,この共同体の崩壊ののちに奴隷制が生起するか否かが問題であるが,小農民の普遍化・農奴制の成立などが予想される。ために,支持論者のなかでも意見の分岐がある。[8]奴隷制成立説。鄭昌淦によれば,商鞅の変法は封建制への道ではなく土地私有化が商業活動の活発化を促進したため,農民の没落を招き,やがて奴隷制が始まると解し,後漢時代,光武帝の奴婢解放令によって,封建制が端緒につくとみている。王思治も農村共同体の崩壊によって奴隷制が始まるとみる点で,鄭説と同意見であるが,共同体崩壊から奴隷だけが生ずるのでなく,小農民も普遍的に析出される。ただこの小農民も奴隷化していくので,奴隷制は発達するという。したがって,小農民の反政府闘争は奴隷化現象への抵抗であり,奴隷社会での階級闘争の特徴をなすという興味深い指摘を行っている。
〔参考文献〕鈴木俊・西嶋定生編『中国史の時代区分』1957,東京大学出版会
唐代史研究会編『中国歴史学会の新動向』1982,刀水書房
多田狷介「中国古代史研究覚書」史艸12,1971