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●奴隷制(ローマ) どれいせい

ヨーロッパ イタリア共和国 AD 

 ラテン語で奴隷は servus と呼ばれたが,この語は servare(保存する)という語から由来しているといわれる。初期ローマの社会では,諸部族間の闘争において,勝利者は被征服民に対して完全な支配権をもち,被征服民を殺したであろうが,他方では戦争捕虜としてその生命を許したことは勝利者側の一種の恩恵行為であったかもしれない。しかし捕虜を奴隷として隷属状態のもとに利用するためには一定の社会的諸条件が成立していなければならなかった。金属の使用,定着農耕による遊牧経済からの脱却,生産部門の発達と専門化,商業の成立,必要な土地の私有制と富の蓄積,階級社会の形成などと対応して奴隷制が組織的に成立したと考えられる。戦争にさいして敵の捕虜を奴隷として使用することは,生産力の向上に役立ったであろうし,また敵に対する一種の刑罰の意味をもったであろう。おそらく,部族間の闘争から生まれた奴隷身分は,やがて共同体内部の社会内部にも適応され,借金を返済する能力のないものは,自己の身体を債権者にゆだねるよりほかに返済の方法がなかったであろう。ローマでは十二表法のなかで,ローマ市民は負債のために奴隷として国外に売却されたことが示されている。負債奴隷が禁止されたのは前326年に設けられたポエテリウス法によってである。

【奴隷供給源】[1]戦争捕虜 戦争の勝利者は敵国の領土および財産の完全処分権をもったので,ローマ勢力のイタリア半島への発展はとうぜん戦争捕虜を増大させた。もちろん捕虜全部が奴隷として売られたかどうかは疑わしく,身代金を要求して敵国に返還されたかもしれない。前4世紀ごろから戦争捕虜の教が増大し,とくに第2次ポエニ戦争(前218〜前201),およびヘレニズム諸国家との東方戦争の結果,ローマおよびイタリアには戦争捕虜による奴隷が急激に増加した。前200年から前150年にかけての戦争捕虜の数は25万人に達したと推定されている。[2]略奪・誘拐 海賊の横行あるいは人身の略奪・誘拐は,国家権力による治安の維持と相関関係にあるが,第3次マケドニア戦争(前171〜前167)ごろよりローマの東方世界に対する干渉は露骨となり,東方における弱小王国のローマへの従属の度合が強化された。しかしローマによる東地中海上の治安が確立されず,略奪・誘拐が頻繁におこった。キリキア沿岸は海賊活動の中心地となり前102年はじめてローマによる海賊平定が試みられたとき,デロス島で1日に1万人の奴隷売買が行われたといわれている。東方世界のみが奴隷の供給地ではなく,西方に対する戦争もまた多くの捕虜奴隷をローマやイタリアにもたらした。しかし手工業に利用される熟練奴隷や,教育や医療に用いられる知的奴隷はやはり東方系であった。東方世界の征服はローマおよびイタリア社会のヘレニズム化をもたらし,奴隷は日常生活の各面に浸透したのである。

【奴隷反乱】奴隷は前2世紀の前半から生産部門に多く使用され,奴隷反乱の危険があった。奴隷労働はほんらい強制労働であり,労働条件は苛酷であった。奴隷反乱はすでに前2世紀はじめにおこっているが,その最大のものは前135〜前132年,前104〜前101年の2回にわたっておこったシチリア島における反乱と,前73〜前71年のスパルタクスの反乱である。シチリア島の最初の反乱は牧畜業者による烙印・笞打の虐待に対する反抗に端を発した。最初はわずか400人の地方的な反乱にすぎなかったが,3日間で奴隷の数が6,000人に達し,リヴィウスはこの反乱に加わった奴隷と自由人との数を7万人としている。他方ディオドロスは20万人といっているが,これはいささか誇張であろう。また前72年の剣奴の乱とも呼ばれるスパルタクスの反乱は,それに参加した奴隷数が一時12万人に達したといわれる。スパルタクスはローマ軍を破り,ガリア・キサルビナにいたり,かれらの故国であるゲルマニア・ガリア・トラキアに脱出しようと計画した。しかし多くの奴隷はイタリアを掠奪すべく,南進し,シチリアに渡ろうとしたが成功せず,前71年ルカニアにおいてローマ側の将軍クラッススによって撃破され,スパルタクスは敗死した。また反乱の残党はスペインから帰還してきたポンペイウスによって絶滅された。このような大規模な奴隷反乱は,中小農民の没落・奴隷労働大農地制の発達など,ローマ共和政の崩壊と世界帝国の成立過程のなかに現れた一現象であるが,ローマやイタリアの市民に大きな心理的影響を与えたことは否定できない。

奴隷労働大農地(ラティフンディウム)】奴隷労働の存在のみで,奴隷制社会が成立するのではない。そこには奴隷労働を利用して一つの社会的生産を可能ならしめる諸条件が必要である。ローマおよびイタリアではとくに第2次ポエニ戦争以後金持階級が公有地や没落中小農民の土地を兼併し,大土地所有者となり,東方や帝国の周辺未開地域より流入する奴隷を利用し,ぶどうやオリーブのような果樹栽培を行うようになり,ここに奴隷労働による大農地経営が成立した。前160年ごろに書かれたカトーの『農事記』には,240ユゲラのオリーブ園には13名の奴隷,100ユゲラのぶどう園には16名の奴隷が必要であると述べている。これらの奴隷労働は大農地を経営する最低の労働力で収穫期にはとうぜん自由労働者を雇用した。直営地の中心にはヴィラと呼ばれる農業屋敷があり,奴隷は農地を経営する奴隷監督とともに,日中は農地で働き,雨天や余暇のさいには,屋敷で農園に必要な道具の製作や修繕を行った。奴隷労働が組織的かつ集中的に利用された場合,オリーブ油やぶどう酒は恒常的商品として生産が可能であった。

【工業奴隷】ローマおよびイタリアの特定の地域における奴隷労働大農地の発展に対応して,工業においても奴隷労働が発達してきた。エトルリアのアレティウムにおける赤紬浮彫(テルラ=シギラータ)の陶器工業では,コルネリウスと呼ばれる製造業者は300人の奴隷を所有していたと推定されている。またマルクス=クラッススは土木用の奴隷を500人もっていた。このように工業生産の部門にも多数の奴隷労働が用いられた。

皇帝奴隷ヘレニズム文化のローマ社会への浸透によって,富裕な家庭は多くの奴隷を使用するようになった。そのもっとも代表的なものは皇帝奴隷である。皇帝は私有財産に加えて,前任の皇帝の遺産を相続することによってもっとも大きな奴隷所有者となった。その一例としてローマの水道管理をみよう。ローマの水道管理は按察官の管理下にあったが,実際には奴隷を使用する企業家に請け負わされていた。前33年アグリッパが按察官のとき,給水に従事する自分の奴隷を一つの永続的な団体とし,アグリッパが死亡したとき,これらの奴隷はアウグストゥスの皇帝奴隷に加えられた。またアウグストゥスが前22年都市の消火隊を編成したとき,按察官のもとに600人の奴隷が配属されている。このように皇帝に直属する行政機構が拡大され,国家権力への道がひらかれると,被解放奴隷からも国家の枢要の地位につくものも現れてきた。また皇帝の代官に多くの被解放奴隷が用いられた。したがって1世紀ごろ皇帝奴隷および被解放奴隷は,ローマ帝国の社会において重要な役割を演じていたのである。しかしロ一マ市民権が属州民に拡大され,ローマ皇帝権の基礎も属州出身の富裕な階層に依存するようになると,上級の行政官から被解放奴隷は除去され,騎士階層の人々がその地位をしめるようになった。この傾向はハドリアヌス帝(在位117〜138)から現れた。

【小作制】ローマの資料ではすでに前100年ごろ小作人(コロヌス)がいたことが認められるが,後1世紀に現れたコルメラの『農事記』には,明らかに小作人の記事が現れてくる。彼は,気候の悪い地方・やせた土地,あるいは遠隔の土地で主人がみずから訪問することの困難な所,とくに穀物栽培を行う土地では小作制をすすめている。さらに1世紀後半の小プリニウスの書翰にはいっそうはっきりと小作人の記事が現れている。そのなかには小作料滞納のため,5年ごとの金納制をやめ,長期契約の分益小作制の採用が記述されている。いまや科学的農業経営と呼ばれる奴隷労働直営地経営が衰え,小作制が農地経営の前面にでてくる。

【工業奴隷の衰退】すでに述べたごとく前1世紀イタリアのアレティウムでは赤紬浮彫(テルラ=シギラータ)の陶器生産が活発で,西方の各地に輸出されていたが,後1世紀になると,イタリアの陶器生産は衰退し,ガリアにおいて赤紬浮彫(テルラ=シギラータ)の生産が発達し,2世紀にはライン川に達した。しかもそれらの地方における主要労働はもはや奴隷ではなく,自由労働であったといわれる。このように後1世紀末から2世紀にかけてイタリアの経済力は低下し,かえって属州の経済的発展が認められる。イタリアにおける奴隷労働による経済活働の衰退が,奴隷の反乱によるものか,あるいはロストフツェフの主張するように経済力の属州への遠心化によって,属州が今まで輸入していた商品をみずから生産するようになったためか,あるいはローマの平和によって属州あるいは帝国周辺の未開社会からの奴隷供給源の枯渇によるものか,その原因を断定することは困難である。

【奴隷の地位の向上と奴隷制の衰退】アウグストゥスによる平和の確立は奴隷供給源としての捕虜の減少をもたらしたが,奴隷そのものが少なくなったわけではない。しかし奴隷身分もしだいに改善されてきた。「奴隷に関するペトロニウス法」によって奴隷と野獣との決闘には役人の許可が必要となり,ハドリアヌス帝は法律によって奴隷牢獄を廃止し,また剣士の訓練者へ奴隷を売ることを禁止している。また奴隷は法的には人格を喪失していても,すでに共和政のころから宗教祭儀には自由人と一緒に参加し,種々の宗教団体をつくることも許されていた。また「ペクリウム」と呼ばれる一定の財産をもつことが認められ,それをもとにして利殖を行い,自由を買うことも許されていた。

 後2世紀すでにローマ社会では小作制が一般的となっていたが,この小作人には自由人もいたが,奴隷の解放されたもの,あるいは小作的奴隷もいた。両者の身分上の系譜は別であるが,4世紀になると両者とも土地に拘束され,土地台帳に記入されるようになった。小作人は移動の自由が禁止され,土地とともに売買された。このような小作制は「コロナトゥス制」と呼ばれる。3世紀の「軍人皇帝時代」といわれる内乱ののちディオクレティアヌス帝による専制政治は,ローマ社会の固定化をもたらし,奴隷そのものはまだ多く存在したが,奴隷制はもはや社会構成的な機能をもたなくなったのである。つまりローマ社会にあっては奴隷制が重要な役割を演じた全盛時代は前2世紀から後2世紀のあいだであった。