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●奴隷制(アメリカ) どれいせい

北アメリカ アメリカ合衆国 AD 

 イギリス領北アメリカ植民地およびアメリカ合衆国における奴隷制は,生産関係の一形態であった以上に,人種の違いにもとづいていたことが特徴的である。すなわちそれは,人種関係を規定するものであった。原住民であるインディアンが奴隷として使われたことは植民地初期を除いて,ほとんどなかった。奴隷はすべてアフリカから連れてこられた“ニグロ(黒人)”か,もしくはその子孫であった。黒人はすべて−−わずかの例外を除いて−−奴隷となったところに,北アメリカにおける奴隷制の問題があったのである。奴隷制は,タバコや綿花を主産物とする南部プランテーション(大農園制)経済の発達と密接にかかわっていたことはよく知られている。しかしそれ以外の地域でも奴隷制は存在し,また自由黒人に対しても社会生活のさまざまな分野で差別が根強くあったことは,白人−黒人関係における人種的要素を除いては説明できない。

【起源】北アメリカのイギリス植民地に最初の黒人(20人)が到着したのは,1619年バージニアにおいてであった。彼らは,法律上の意味の奴隷ではなかった。すなわち白人の移住者の多くと同じく,年期奉公人として働いたのである。その後黒人の年期奉公人の数は増加したが,しだいに白人との待遇の違いが慣習化された。これが奴隷制の始まりである。最も顕著な違いは,白人の場合は逃亡してつかまったとき,逃亡していた期間分余計に働くことが罰則として課せられたが,黒人の場合,その期間は長くなる傾向があった。1661年のバージニア法は,逃亡した黒人の年期奉公人は〈年期を増すことによって,雇い主に満足を与えることはできない〉と,定めた。これは「永久労役」という奴隷の身分の固定化を示す最初の法的承認とみなされている。その後他の南部植民地・中部植民地・ニューイングランドにおいて,黒人奴隷の日常生活を管理する法がつくられた。たとえば奴隷は許可なくしてプランテーションを離れることはできないとされ,武器の携帯も禁止された。さらにキリスト教に改宗しても,黒人は一生涯「奉公人」の身分は変わらないとする法ができ,白人=主人そして黒人=奴隷という支配・従属関係は定着した。

アメリカ革命と奴隷制】奴隷制が成立してから約1世紀のあいだに,奴隷の数は飛躍的に増加した。1790年には50万人以上がいたと推定される。しかし植民地の本国からの独立をめざす運動が顕著になったころ,奴隷制廃止の声も聞かれた。「私的解放」は善意の奴隷所有者によってしばしばされていたが,制度そのものを廃止(abolition)するという気運が高まったのである。事実,北部植民地においては独立戦争中もしくは独立後間もない時期に,奴隷制は廃止された。しかし,その経済と生活が奴隷制に大きく依存していた地域においては,廃止に対しては強い抵抗があった。「独立宣言書」(アメリカ)案の,国王に対して奴隷制導入の責任を追究する個所が最終的に削除されたのは,それらの地域の反対があったからである。また合衆国憲法制定会議(1787)は全国的に奴隷制の廃止を決定するよい機会であったが,南部諸邦の代表はそれに反対した。その結果,(1)連邦議会下院議員の定足数を決める人口を算出するさい,黒人奴隷は「その頭数を5分の3」として計算する,(2)逃亡奴隷は所有者に引き渡す,(3)奴隷貿易は1808年以後禁止できるとする条項が,妥協案としてもり込まれたのである。

【綿花王国の出現】建国初期には奴隷制は自然消滅するという期待があった。しかし現実には綿花ブームが到来し,奴隷制はアパラチア山脈を越えてひろまった。すなわちイギリスの産業革命により原綿の需要が急速に増えたこと,コットン=ジン(綿繰り機)の発明によって生産が飛躍的に増大したことが,その背景にあった。それに伴い奴隷の労働力の増加が求められた。その需要を満たしたのが,国内奴隷貿易であった。1808年に奴隷貿易は禁止されていたので,タバコ栽培に行き詰まりをみせていたバージニアなどの旧南部諸州がおもな供給源となった。“奴隷飼育業”が成立する基盤がそこにはあったのである。このようにして生み出された奴隷は,綿花ブームにわく「ディープ=サウス」(深南部,アラバマ・ミシシッピー・ルイジアナなど)へ運ばれたのであった。

【奴隷の生活】黒人奴隷の生活が悲惨であったことは否定できない。明け方から日没まで,単調で退屈な仕事が彼らの日課であった。それは農場奴隷にも,家内奴隷にもあてはまった。彼らは粗末な奴隷小屋に住んでいた。衣料は主人から供与されたが,食料はあてがわれた菜園で作ることが多かった。「スレイブ=コード(奴隷取締法)」が,彼らの日常の活動を厳しく制限した。このような状況にもかかわらず彼らは主人に忠誠を尽くしたのであるが,主人の気まぐれや経済的理由で家族と切り離され,遠隔の地に売られることも珍しくはなかった。主人の所有物ということで,彼らは「家畜」同様に扱われたのであった。このことから奴隷制は黒人の人間性をすべてうばい,精神を堕落させたという観察が出てくる。それは否定できない。しかし奴隷は自らの置かれていた状況を彼らなりに把握し,苛酷な生活条件を生きぬく一方,彼らの感情と意志を宗教・音楽・民話などを通して,表現したのであった。限界状況に生きる人間の力強さがそこにはうかがわれる。黒人特有の文化の起源−−それはしばしば奴隷「クォーターズ(居住区)」の文化と呼ばれる−−を,われわれはみるのである。

【奴隷反乱】奴隷所有者がつねに恐れていたことの一つに,奴隷反乱があった。いいかえれば奴隷たちがひそかに集まり,暴動をたくらんでいるのではないかという危惧は,潜在的にすべての奴隷所有者にはあったのである。とくにハイチでトゥーサン=ルーヴェルテュールに率いられた奴隷革命(1790〜1803)が成功したのちに,南部のプランターたちは敏感になった。記録に残されている奴隷反乱の数は,実際には少ない。しかし記録に残されていない小規模なものや未遂のものがあったことを考慮するならば,プランターたちが警戒したことは必ずしも根拠がなかったわけではない。1831年バージニア州サザンプトン郡でおこったナット=ターナーの反乱は最大のものであった。白人の死者は55人に及び,120人の奴隷が殺された。首謀者のターナーは2カ月の逃亡後捕えられ,絞首刑に処せられた。この事件の直後,プランターたちは一種のパニックに陥った。そのために同年予定されていた,奴隷制廃止審議のためのバージニア州特別議会は中止され,南部諸州より厳しい奴隷取締法を制定したのであった。

南北戦争と奴隷制】南北戦争(1861〜65)の原因の一つに奴隷制の存在があったことは,一般に認められている。奴隷制をめぐる論争はそれまでに激しさを増していた。ミシシッピー河以西の地域において奴隷制を認めるか否かの論争は北緯36度30分の線より北では禁止するとするミズーリ妥協(1820)によって,一応の結着をみた。その後メキシコから得た領土における奴隷制の存廃が問題とされた1850年の「大妥協」では,カリフォルニアを自由州として連邦加入を認める一方,逃亡奴隷の引き渡し義務を強めた。1854年にカンサス=ネブラスカ法が成立し,両准州が連邦に加入するさい,住民投票によって奴隷制の廃止または存続を決定できることになったことから,再び論争がおこった。同年この法律に反対し,奴隷制拡大を批判する共和党が結成された。ミズーリに生まれたときは奴隷であったがその後ウィスコンシンなどの自由州に住んだので自由人となり,その身分はミズーリに戻ってからも変わらないとして争われていた事件,ドレッド=スコット訴訟で,連邦最高裁判所は,奴隷には訴訟をおこす権利がないとし,スコットに不利な判決を下した(1857)。さらにミズーリ妥協は〈正当な手続き〉なしに奴隷所有者から財産−−奴隷−−をうばうことを定めたので,憲法違反であるとした。バージニア州のハーパース=フェリーの連邦武器弾薬庫を熱心な「アボリショニスト(奴隷制即時廃止論者)」のジョン=ブラウンが襲った事件(1859)は,奴隷制問題の平和的解決を困難にした。そして共和党のエイブラハム=リンカーンが大統領に当選するに及んで,奴隷制擁護の南部11州は合衆国を脱退し,南北戦争が始まった。

【廃止】南北戦争におけるリンカーンの〈最高の目的〉は,〈連邦を救う〉ことであった。しかし彼が奴隷制の問題を深く憂慮していたことは明らかであり,1863年1月1日に「奴隷解放宣言」を出した。これは合衆国に対して謀反の状態にある州の奴隷は〈永久に自由〉であると述べたものであったが,実際には一人の奴隷もそれによって解放されたわけではなかった。リンカーンおよび彼の後継者であった。アンドルー=ジョンソンは,漸次的解放の計画−−所有者への補償・解放黒人のアフリカそのほかへの送還など−−をもっていたが,共和党の急進派はこれに反対し,無償の即時解放を主張した。後者の主張が通り,1865年に憲法修正第13条が成立し,奴隷制は廃止された。引きつづき,解放黒人の公民権を保障した憲法修正第14条(1868)および黒人の投票権を保障した同第15条(1870)が成立し,かつての奴隷−−今は解放黒人−−の法的平等達成のための第一歩が踏み出された。さらに解放民管理局が設置されるなどして,黒人に対する経済的救済や教育の普及がはかられ,かなりの成果がみられた。しかし黒人が社会において従属的地位を占めるという人種関係は根本的には変わらず,「社会的差別」が定着した結果,奴隷の身分を脱した黒人は,「第2級市民」の地位に置かれることになった。この状況が改善されるためには,その後1世紀にわたる地位向上のための運動をへなければならないのである。

〔参考文献〕本田創造『アメリカ黒人の歴史』1964,岩波書店

猿谷要『アメリカ黒人解放史』1971,サイマル出版会

ジョン=ホープ=フランクリン,井出義光他訳『アメリカ黒人の歴史−奴隷から自由へ』1978,研究社