●ドルメン
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ブルトン語で dol は机を,men は石を意味し,フランスのブルターニュ半島の巨石墳に名づけられたのがその名の起源である。その構造は,まず支石と呼ばれる支えとなる石を構築し,さらに天井石あるいは上石と呼ばれる巨大な石をその上に乗せたもので,巨石記念物の一種である。その性格は,墓地として構築されたものがほとんどである。新石器時代から初期金属器時代にかけての西ヨーロッパでは,ドルメンおよびそれよりさらに発達した形で石で構築された通路である羨道をもつものや,さらにその上を土でおおって墳丘状にしたものなどが,巨石墓文化を形成している。このような大規模な墳墓の構築には,相当の労働力が必要とされるが,それを生み出した社会的背景として農耕の採用によってそれぞれの部族集団ごとのテリトリーが確立し,それが部族間の競争を激化させ,それぞれの部族集団ごとの内部結束を誇示しようとする関心が高まったことを挙げる説もある。
初期金属器時代のインドにおいては,ストーンサークル・ケルン・箱式石棺墓などと並んでドルメンが巨石文化を形成する。とくにマドラスでは,多くのドルメンが存在し,箱式石棺墓を併い,ストーンサークルをもつものがある。初期金属器時代の東南アジアでも,メンヒル・石棺墓石甕と並んで,ドルメンが巨石文化を形成している。新石器時代後期から初期金属器時代にかけての中国東北部では,主として平地をみおろす丘陵上にドルメンが構築されている。初期金属器時代の朝鮮半島にもドルメンが存在するが,その構造によって朝鮮半島北部に分布する北方式と,南部に分布する南方式とに分かれ,北方式は,中国東北部のものと南方式は日本のものと深い関連を示すものである。また副葬品についてドルメンでは,磨製石剣や磨製石鏃を伴うのに対して,同時期に併存する土壙墓では銅剣や鉄剣を伴い,はっきりとしたコントラストを示している。以上のほか,北アフリカや南アメリカにもドルメンが存在し,ほぼ世界的にみられる現象のようである。
日本においても,縄文時代晩期末より弥生時代にかけて存在し,一般に支石墓と呼ばれている。朝鮮半島南部からの影響によって出現したとされ,その分布は,主として福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県といった九州北西部であるが,鹿児島県日置郡吹上町入来遺跡における支石墓のように,南九州にまで及んでいる。縄文時代晩期末においては,北九州唐津近辺,佐賀県東松浦郡玉島浜崎町五反田,唐津市葉山尻・迫頭・森田・岸高などにおいて,円形あるいは楕円形の土壙墓をもち,縄文時代晩期末の小形土器を副葬品あるいは小児甕棺として伴うものが存在し,長崎県南高来郡北有馬村原山・北松浦郡佐佐町狸山などにおいて,箱式石棺墓をもち,副葬品として多くの土器とともに硬玉製の鰹節形の大珠と呼ばれる装身具を伴うものが存在している。弥生時代前期の例としては,佐賀県唐津市葉山尻において長方形あるいは長楕円形の土壙墓をもつものが,存在する。
弥生時代前期から中期に及ぶものとして,福岡県糸島郡前原町志登の支石墓群があり,長方形に近い土壙墓をもつものであるが,中期のものには甕棺墓をもつものがある。この志登の支石墓群は支石墓が群在して集団墓地を形成しているが,同じ弥生時代中期においても福岡県須玖岡本遺跡では,多くの墳墓群のなかにただ一基の支石墓が存在し,副葬品についても須玖以外では,ほとんど見当らないか,あっても貧弱であるのに対し,この須玖岡本遺跡では,多くの副葬品を伴いその地方の首長クラスの墓といった様相を示している。このことから,同じ支石墓といってもその性格は必ずしも一様ではなかったことがうかがえる。弥生時代中期以降,支石墓とは別に甕棺墓の盛行がみられ,それとともに支石墓は急速に衰退してゆき,弥生時代後期になると支石墓の例は少なくなり,熊本県菊池郡藤尾の例のように,支石墓分布圏の周辺地区に例外的に残存するほかは,この時期以降,支石墓はその姿を消してしまうのであった。
〔参考文献〕鏡山猛「支石墓概説」考古学ジャーナル,1979,ニューサイエンス社
C.レンフリー『文明の誕生』1979,岩波現代選書