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●トルコ族 トルコぞく

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 中央アジア・西アジア・ヨーロッパの一部に居住するアルタイ語系のテュルク語(アナトリアで使用されている言語を,とくにトルコ語と呼ぶ)を主要言語とする民族。人種的にはモンゴロイド型であったが,永い移動や征服活動のうちに混血が繰り返され,多様化してしまった。歴史的には,前3世紀ごろ,バイカル湖の南方に匈奴の従属下にあった丁零が,最初に中国の史書に記述されている。丁零は,5世紀末ジュンガリアに,高車丁雰と呼ばれる国家を形成した。6世紀ごろには,突厥が強大化し,モンゴル高原から中央アジアの草原地帯に大遊牧帝国を形成した。丁零突厥は,Turk の音写であろう。彼らの信仰形態はシャーマニズムであり,突厥は狼をトーテムとしていた。突厥帝国は,広大な領土を東西に分裂し,東突厥はモンゴル高原を,西突厥は中央アジアを支配したが,双方とも7世紀半ば,唐によって滅ぼされた。その後,中央アジアにはトルギッシュ(突騎施)が,アルタイ方面にはカルルク(葛邏禄)が台頭した。トルギッシュは,アラブの中央アジア進出を阻止し,カルルクはタラス川の戦いで,唐軍がアッバース朝軍に敗れる一因をつくっている。8世紀ごろ東突厥が再興し,ソグド地方まで勢力を拡大した。東突厥の支配下にあったウイグル族は,モンゴル地方から南下し,中央アジア方面まで拡大,オアシス地帯に定住するようになった。このため原住民のアーリア系ソグド人たちは,しだいにトルコ化され,この地はトルキスタン(トルコ人の地)と呼ばれるようになった。9世紀中ごろビシュバリクを中心に,天山山脈周辺に西ウイグル王国が建国された。また10世紀には,イシック湖の北にあるベラサグンを中心にカラ=ハン朝が成立した。カラ=ハン朝はイスラームを受け入れ,イランのサーマン朝を倒して,10世紀末にはマーワランナフルを征服した。一方,シル=ダリアの北方草原を遊牧していたオウズ族の一派がイスラームに改宗し,南下してホラサーン地方にセルジューク朝を成立させた。1055年,族長トゥグリル=ベグの率いるセルジューク朝軍は,シーア派イラン人国家のブワイフ朝を倒してバグダードに入城した。1058年,トゥグリル=ベグは,バグダードに残っていたアッバース朝カリフ,カーイムから史上初めてスルタンの称号を公式に授与された。これにより行政・軍事の権限を把握した。セルジューク朝は,スンナ派の回復を西アジア・イスラーム世界にもたらすとともに,トルコ族によるイスラーム世界における政治的支配権の確立を認識させた。さらにビザンティン帝国領への領土拡大は,1071年マラジギルトの戦いで,ビザンティン軍を破り,トルコ族のアナトリア移住によって推進された。このセルジューク朝の西アジア進出は,中世西ヨーロッパ諸国へも影響を与え,十字軍運動の一因となった。一方,トルコ族の西進は別の経路からも行われ,黒海の北岸のステップ地帯を移動し,ドナウ川河口のドブルジャ地方まで進出・定着したものもあった。オウズ族の一支族であったオスマン族は,西進するモンゴルに追われ,ユーフラテス川を渡りアナトリアに移住し,ルーム=セルジューク朝ガージーとして,ビザンティンと国境を接す辺境地方に封土を得た。その後,ビザンティン帝国領へ勢力を広げ,1299年独立してオスマン国家を建て,帝国への発展の基礎を築いた。オスマン国家はバルカン半島へも支配を拡げ,多くのトルコ人が植民した。16世紀に最大版図を誇ったオスマン帝国は,アジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる大帝国となり,1517年カリフの称号さえも入手した。第一次世界大戦後,戦争に敗れたオスマン帝国は滅亡し,トルコ人はアナトリアにトルコ共和国を樹立した。また中央アジアでは,17世紀にヒバ・ブハラ・コーカンドの3カン国が成立したが,ロシアの中央アジア進出により滅亡した。しかし,今日のソ連邦でカザフ・キルギス・トゥルクメン・ウズベク・アゼリーなどのトルコ系諸族は,連邦内に共和国などを構成している。中国においても,ウイグル人が新疆ウイグル自治区内に多数居住している。

 トルコ族は,遊牧騎馬民として草原地帯で強力な戦闘力をもっていた。このため,しばしば自ら遊牧国家を形成,農耕地域への進出も行ったが,他の王朝の武力機能となることもあった。中央アジアでイスラームに改宗したトルコ族が,西アジアに奴隷や傭兵として移動し,アッバース朝の軍事力となった。西アジアに移動後改宗した者もあった。軍事的力量をもったトルコ人は,奴隷身分から解放されたのち,アフガニスタンのガズナ朝や,西北インドの奴隷王朝などの独立王朝をも築き上げることもあった。セルジューク朝やオスマン朝は,奴隷身分に入ることなくガージー集団として勢力を増大させ,キリスト教世界への進出をはかった。イスラーム化したトルコ人は,西アジアイスラーム世界に君臨するとともに,東方キリスト教世界をもコンスタンティノープル占領によって支配下に治めてしまった。これらのトルコ人の支配体制は,強力な軍事力を背景とした軍人支配体制であった。イクター制ティマール制と呼ばれる軍事封土制が実施された。トルコ人のイスラーム化は,アラブの支配下に入っての改宗ではなく,イスラーム商人などとの接触によって改宗したものであるが,そのため神秘主義教団(スーフィー)と深い関係をもち,シャーマニズムや西アジアの土着信仰などが取り込まれている。このため,オスマン朝の支配下に入ったアラブなどは,不満をもちワッハーブ運動などをおこした。しかし,トルコ族のイスラーム世界支配は,中央アジアのトルコ文化を広く北アフリカまで拡大させていた。19世紀以降,ヨーロッパ勢力のオスマン帝国への侵略が始まると,イスラーム教徒の団結をもって対処しようとしたが失敗し,トルコ民族主義の思想が生まれ,パン=トゥランズムやパン=トルキズムが唱えられるようになった。