●トルコ革命 トルコかくめい
アジア トルコ共和国 AD
第一次世界大戦後,オスマン帝国の崩壊のなかから生まれたトルコ人による祖国解放運動,およびその成果として樹立されたトルコ共和国における一連の世俗化改革運動。オスマン帝国が第一次世界大戦に参戦すると,協商国側は相互に密約を結び,オスマン帝国の分割を計画していた。1918年9月ムンドロス休戦協定が成立,協商国はイスタンブールに軍隊を送り,スルタン=メフメト6世に圧力を加え,分割計画を実施に移した。1919年5月,ギリシア軍はイズミルに上陸,アナトリアのエーゲ海沿岸地方を占領し,大ギリシア国家建設をめざした。一方で,イギリス・フランス・イタリアがアナトリアの管理を始めた。これに対し,トルコ人は各地に抵抗組織をつくり民族解放の戦いを始めた。1919年5月,サムスンに上陸した東部州総督ムスタファ=ケマル=パシャは,アナトリア分割を容認し親協商国的政策を推進するスルタン政府に反対し,民族解放運動に身を投じた。エルズルムシヴスで会議を開き,地方の抵抗組織の統合をはかり,1920年,イスタンブールの最後のオスマン議会に対抗してアンカラにトルコ大国民議会を招集し,新たな政府を樹立した。ここにオスマン帝国には,アンカラとイスタンブールに二つの政府ができた。しかし協商国は,イスタンブールのスルタン政府とのあいだにセーヴル条約を締結した。この条約は,トルコ人にアナトリア中央部の一部が残されるのみであった。トルコ国民はアンカラ政府に結集し,スルタン政府のカリフ擁護軍をダシナク派アルメニア人勢力でもって撃破し,フランス軍を南東アナトリアで圧迫した。ギリシア軍とは激戦であったが,サカリアの戦い・イノニュの戦いで勝利を得て,1922年9月9日イズミルを回復して,ギリシア軍をアナトリアから追い出した。1922年10月ムダニア休戦協定が締結され,セーヴル条約は破棄された。新たな講和条約の調印のため,イスタンブールのスルタン政府にも招請状が届いた。これに対しアンカラ政府は,11月1日オスマン朝のカリフとスルタンを分離して,スルタン制を廃止した。イスタンブール政府は消滅し,オスマン朝は断絶した。唯一の政府となったアンカラ政府は,1923年7月,ローザンヌ条約を締結した。同時にトルコ共和国の完全独立を国際的に承認させ,カピチュレーションや,オスマン債務管理局などのヨーロッパ諸国による植民地支配制度は廃止された。10月29日,首都をアンカラに定め,ケマル=アタチュルクを初代大統領とするトルコ共和国が樹立され,オスマン帝国は完全に消滅した。一方,保守勢力はカリフを国家元首とすべきであると主張し,ムスタファ=ケマル等の政府を批判した。このためトルコ大国民議会は,1924年3月3日カリフ制を廃止し,オスマンー族全員を国外追放した。4月には共和国憲法が制定され,主権在民,トルコ大国民議会が唯一の立法機関であることが制定された。さらに,シャリーアにもとづく宗教裁判所の廃止・マドラサの廃止による世俗教育への一本化などの改革が行われた。1925年,東部アナトリアのクルド族が,シェイフ=サイトを中心にシャリーアの回復とカリフ制の復活を求め反乱をおこした。これに対して,政府は治安維持法を制定し反乱を鎮圧し,同法を1929年3月まで延長し,多くの改革事業を行った。神秘主義教団の修道場廟の閉鎖,トルコ帽・ヴェールの着用禁止,ヒジュラ暦の廃止・西暦の使用,新民法(スイス民法)・刑法(イタリア刑法)の採用,アラビア文字の廃棄と新トルコ文字の採用,度量衡の単位変更(メートル法の採用)などがあげられる。経済面での改革は,オスマン帝国時代,ギリシア人やアルメニア人が経済活動の中心であったため,トルコ人民族資本家の形成は遅れていた。政府は民族資本家育成につとめたが,十分な成果は得られないうちに,1929年の世界恐慌が訪れた。政府は,国家資本主義政策を実施し,外国系企業・鉄道を買収し,国営工場等の設立に努力した。1930年には,紙幣発行権および国庫機能を有するトルコ中央銀行が設立され,外国系銀行の権限縮小をはかり,一方で,民族資本の新銀行に金融だけでなく,経営管理・開発計画の機能をもたせた。さらに5カ年計画を実施し,第一次世界大戦の敗北により崩壊した政治・経済は,1930年代に安定を取り戻し,世俗的な民族国家としての地位を確保した。
トルコ革命の基本的理念は,ケマル=アタチュルクの指導によるトルコ民族主義・世俗主義・共和主義を柱とするものであった。オスマン帝国の衰退を阻止するためにパン=イスラーム主義・パン=オスマン主義・パン=トゥラン主義が唱えられたが,成果は得られず,トルコ民族主義に帰結した。しかし多くのトルコ国民は,対ギリシア人・アルメニア人・キリスト教徒としての宗教運動としてとらえていた。まだ十分なトルコ民族としての自覚が養われていなかった。このため初期の解放運動には,ウラマーたちの動員力が利用された。しかし解放途上,アンカラ政府はスルタン政府との対立において,より脱宗教的性格をもつようになった。解放後,ムスタファ=ケマルを党首とする人民党が結成されると,保守的なウラマー,軍人・知識人はカリフ擁護の立場をとり,双方の対立は激化した。このため人民党は,世俗政策をより強化させなければならなかった。ウラマーは,解放戦争において社会的組織力をもって動員に大きな役割を果たしたにもかかわらず,世俗化によって社会的・経済的基盤を失い,不満を内含させ弱体化した。一方,解放戦争に軍事面で活躍した青年将校や職業軍人,経済面で支援した地主・民族資本家の立場は強化された。このようにして,ケマル=アタチュルクの改革理念を支持する層は,都市部を中心に,軍人・官僚・民族資本家によって構成された。一方で,ウラマーたちは農村社会に入り,地主・資本家に不満をもつ小農民・小作人層と結びついた。第二次世界大戦後,共和人民党(人民党が1924年11月に改称)による一党独裁が終わり,複数政党制が実施されると,宗教政策・国家資本主義に不満をもつ保守的知識人・地主たちは,共和人民党を批判した。彼ら民主党は,とくに宗教政策に不満をもっていた農村部の支持を受け,政権を握ると革命の柱である世俗化政策は大幅に後退した。