●トリエント公会議 トリエントこうかいぎ
AD1545
宗教改革に対抗してカトリックの教義の確定と教会の改革をはかるために,南ティロルのトリエント(イタリア名トレント)において開催された公会議。会議の期間は1545〜63年であるが,このあいだ,1545〜48年,1551〜52年,1562〜63年の3期に分かれて開かれた。初めは神聖ローマ皇帝カール5世はプロテスタントをカトリック教会に復帰させるという期待のもとに,教会の改革のみを審議することを望んだのに対し,教皇パウルス3世は教義の確定のみを行ってプロテスタントと対決する決意を示したため,両者の妥協の結果として教義と改革の2問題が審議されることになったものである。しかし会議は教皇の方針に添って教義問題を優先的に審議し,その結果プロテスタントとの対決色が濃厚になった。会議の開催地が1547〜48年のあいだボロニャに移されたのも,皇帝の影響を排除しようとする教皇の決意によるものであり,公会議が1552〜62年のあいだ中断されたのも,教皇パウルス4世が法王庁の力のみで教会の悪弊をのぞき,改革を推し進める方針をとったためである。プロテスタントの代表としてはドイツのルター派の代表が1度だけ1551年にトリエントまで来たが,彼らの信仰告白を手渡したのみで,会議には参加していない。【公会議の決定事項】中世神学にはトマス神学・ドゥンス=スコトゥスの神学・ウィリアム=オヴ=オッカムの唯名論の神学・アウグスティヌスの神学などの流れがあり,カトリック教会の正統神学というべきものがなかったうえに,それらの神学も宗教改革の衝撃によって動揺を示していたので,教義の確定はカトリック教会にとって重要な課題であった。しかしさまざまの神学の流れがあっただけに公会議参加者のあいだには見解の相違があり,会議は難行したが,ルターの説と対決し,それを否定する形で教義の確定がなされた。信仰義認に関しては,信仰は救いの始まりであるとはされたが,善きわざも救いに大きくかかわるとされ,それと関連して自由意志,予定におけるプロテスタント的見解も否定された。聖書主義に対抗しては,聖書と並んで教会の伝統のもつ意義が認められるとともに,教皇のみが教義の決定者たりうること,ラテン語聖書(ヴルガータ)が信頼すべき原典であることが決定された。そのほか,聖体についての化体説,七つの祕跡の正しさと救いにとっての不可欠性,煉獄と聖者崇拝の正当性が肯定された。改革問題は1562〜63年の最後の会期になって審議されたにすぎない。皇帝側からは二種聖餐と司祭の結婚を認めるべきであるとの提案がなされていずれも否定された。しかし教会腐敗の原因をのぞき聖職者の質の向上をはかるために,司教は任地に居住すべきこと,複数の聖職禄をもってはならないこと,各司教区に司祭を教育するための神学校を設けることが決定された。
【公会議の意義】反ルターの線で貫かれたこの公会議の決定によって,当初一部の人々によって抱かれていたプロテスタントとの和解と信教の再統一の可能性は消滅した。しかし宗教改革に対抗してのカトリック教会の陣容の立て直しという面では,公会議は決定的に重要な役割を果たした。カトリック教会の正統的教義を確立したことは聖職者の動揺を防ぎ,諸改革の決定は教会の刷新に貢献して,公会議は反宗教改革の起点となったからである。