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●ドーリア人 ドーリアじん

ヨーロッパ ギリシャ共和国 AD 

 古代ギリシア民族のうち,前13〜前12世紀のエーゲ海における民族移動,あるいは“海の民”の襲来につづいて多分前11世紀ごろヘラスに移動してきた分派で,3部族制と独得の方言に特色がある。ドーリス人ともいう。青銅器時代の初期(前2500〜前2000年ごろ)に移動してきたギリシア人のうち,一部は前1950年ごろギリシア本土に侵入して農耕を始め,ミケーネ文明圏を形成したが,一部は北ギリシアの山岳地帯にとどまって移牧を行った。これがのちのドーリア人である。彼らは鉄器によって先住民を征服しながら南下してきたが,その時期と経路は学界の重大な論争点である。ドーリア人がミケーネ文明を破壊したとする古典学説に対して,最近では“海の民”を破壊者とみる学説が優勢である。ともあれ,ピュロスやミケーネ出土のリニアB文書にドリス方言が使われていないこと,ホメロスの叙事詩がドーリア人に言及していないことは事実である。ドーリア人の移動をヘラクレス一族の帰還と結びつける古代ギリシアの伝承によると,ヘラクレスの息子ヒュロスが,ドーリア王アイギミオスのもとに赴き,その養子となった。彼の子孫はドーリア人の先頭に立って奮闘し,失敗を重ねながらペロポンネソスに侵入し,ラコニア・アルゴス・メッセニアと分散していった。ヘラクレスとの結びつきはドーリア人の侵略と支配の正当化のために考案されたのであろうが,オリンピア→デルフォイ→ナウパクトス→コリント湾の渡海→ペロポンネソス半島という“帰還”の経路は容認できるように思われる。スパルタの詩人テュルタイオスもヘロドトスもそう主張している。とすれば,コリント地峡通過はこの時期ではなく,のちのメガラ地方のドーリア化に帰せられるべきかもしれない。伝承はまた有名な3部族制の起源をも説明しているが,ヒュレイスイリュリア系デュマネスはギリシア系,パンフュロイは文字通り“全部族”の混合体と解釈することができ,移動に先立って行われた部族編成の様子を暗示しているのである。ドーリア人はスパルタ・アルゴスシキュオン・コリントス・メガラの諸ポリスをつくり,エーゲ海のクレタ・メロス・テラの島々,小アジア西岸のロドス・コス・クニドス・ハリカルナソスに定住した。ドリス系ポリスがその後の政治的・経済的発達の過程で二つの方向をとったことは注目すべきである。スパルタやクレタの諸ポリスでは3部族制が固持されて,支配階級を形成し,被征服民を農奴とした。このため軍事国家の道を歩むことになる。他方,シキュオンやコリントスなどのポリスは,商業を発達させ,早くから3部族制が崩れ,征服者と原住民の同化がすすんだ。その過程で僣主の登場がみられたことも特色の一つである。ドーリア人は文化面でギリシア史に大きく貢献した。製陶(コリントスやスパルタ)・建築・叙事詩・彫刻の各分野での活躍はイオニア文化(前6世紀)にはるかに先駆けている。ドーリア人は数多くの植民市を建設したが,そのなかにはシラクサケルキュラ(母市はコリントス),タラス(タレントゥム,母市はスパルタ)・ビザンティオン(母市はメガラ)が含まれている。