●トラファルガーの海戦 トラファルガーのかいせん
ヨーロッパ フランス共和国 AD1805 第一帝政
ネルソン提督の率いるイギリス艦隊がヴィルヌーヴ提督の率いるフランス・スペイン連合艦隊に大勝した海戦。1802年のアミアンの和議から1年後,イギリスは再びフランスに対して宣戦布告し,1805年には,イギリス・オーストリア・ロシア間に第3回対仏大同盟が結成された。これに対してナポレオンは,イギリス本土上陸作戦を計画する。このため,8月上旬にはブローニュに約15万の大軍を集結させる一方,その当時フェロルにいたヴィルヌーヴ提督にブレストにただちに来るように命じた。ナポレオンは,彼自ら大軍を率いて渡海するのに必要な2日間のみ制海権を確保するために,ヴィルヌーヴ提督の艦隊が戦ってくれることを期待していたのである。しかし,ヴィルヌーブの率いる艦隊はやってこなかった。それは,ネルソンの率いるイギリス艦隊の海上封鎖のために8月14日になってはじめてフェロルを出港したにすぎず,しかも,暴風雨とネルソンに対する恐怖から,17日以降カディスに避難していたからである。これは,ナポレオンを怒らせるとともに,彼の当初の作戦を変更させる結果となった。8月26日までヴィルヌーヴの率いる艦隊を待ったナポレオンは,とうとうこの日,オーストリアとの戦いへと命令を発し,まずウィーンに進軍して大陸を平定してのち,イギリスの征圧にとりかかろうとするにいたるのである。ところで,ナポレオンの怒りを伝え聞いたヴィルヌーブは,何とかして名誉回復をはかろうと出港の準備をすすめていたが,9月末,南イタリアにおけるフランス軍の軍事行動を支援するためにカディスを発つ命令を受けた。こうして,ヴィルヌーブの率いるフランス・スペイン連合艦隊33隻は,10月20日にカディスを出港するが,翌日,カディスとジブラルタル海峡の間のトラファルガー岬沖で,ネルソンの率いるイギリス艦隊と遭遇し,戦闘に入った。戦闘はイギリス側の大勝に終わった。午前11時から午後5時までつづいた戦闘によって,フランス・スペイン側は,戦闘に参加した33隻のうち15隻を残すのみとなり,7,000人が死傷し捕虜となった。しかも,当日夜の暴風雨のために,捕獲された数隻の艦船が難破し,犠牲者数もさらに増加した。これに対してイギリス側は,戦死したネルソン提督も含めて約3,000人の死傷者を数えたものの,沈没した艦船は1隻もなかった。
トラファルガーの海戦におけるフランス・スペイン連合艦隊の大敗の背景には,ナポレオンが海軍にほとんど関心を示さず,その制度的・構造的変革に手をつけなかった事情が指摘される。艦船の質が悪いうえに,水兵の訓練が不十分であり,将校も商船隊出身の者が多かった。ともかく,トラファルガーの海戦の結果,イギリスはヨーロッパの制海権を掌握し,ナポレオンのイギリス本土侵攻の野望は打ち砕かれた。ナポレオンの戦闘の舞台はヨーロッパの中央に移動し,イギリスに対しては,大陸封鎖という間接的な形でしか対処しえなくなってしまったのである。ウルムの戦いでの勝利の後,10月21日にナポレオンはこう言っている,〈わが国の国境の敵軍は絶滅した。しかし,イギリスにとってはどうでもよいことだ。イギリスの目的は達成されたのだから。われわれはもはやブローニュにはいないのだから〉。トラファルガーの海戦の意味は,この言葉の中に示されているといえよう。
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