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●渡来人 とらいじん

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 従来,日本の古代において,朝鮮半島を経由し,日本に渡来した人々を,すべて“帰化人”と呼んでいた。しかし,戦後,この呼称について,いくつかの疑問が呈示されるようになった。帰化という用語は,確かに律令時代には用いられるが,これは化外の人が王化を慕って来帰し,内属することを意味する。それゆえ,きわめて中華思想的な用語であり,渡来者を化外の民として蔑視する語感をもともと含んでいるということである。大化前代朝鮮3国から,大和政権は多くの先進文化を導入した。たとえば『書紀』に,百済王が遣わした阿直伎は,太子菟道稚郎子のために王仁という学者を日本につれて来たと伝えるし,阿直伎の子孫は阿直岐史(ふひと)となり,王仁は文首(ふみおぶと)らの祖となったという。それゆえ,朝鮮から渡来した人や集団は決して野蛮の民ではなく,むしろ高度の文化の荷担者であったわけである。その意味からも,帰化人というのはおかしいというのである。仮に文化的な視点を別としても,帰化という言葉を政治的な意味からとらえるにしても,帰化人が成立するためには,日本に古代国家が厳然と確立していなければならないわけである。だが,日本の古代国家確立の時期をめぐって,必ずしも学界では一致していない。戦後間もなくは,アジア的専制国家論や奴隷制国家論が盛行し,巨大古墳を造営した応神仁徳朝,つまり4世紀後半から5世紀初頭にそれを比定する考え方が有力であった。この時期は倭の五王の時代であり,好太王碑にみえるごとく朝鮮出兵が繰り返されていた時代だったとみなされていた。だが,この見解は,とくに韓国や朝鮮の学者から厳しい批判をうけることとなった。それは好太王碑の銘文をめぐる解釈の相異なども契機となったが,騎馬民族説が再び脚光をあび,逆に朝鮮の一部族が日本に上陸して征服王朝を立てるにいたったとも説かれるようになった。日本の学者間にも地方史の研究が進展するのに伴なって,大化前代においては,地方には大和政権に匹敵する地方政権が存在していたと主張しはじめた。つまり,大化前代では未だ大和王権が全国制覇を行っていたわけではないというのである。この論旨に従えば,日本に統一政権が確立していないから,朝鮮から移住して来た人々は,明らかに帰化人ではないといわなければなるまい。日本で,文字どおり,古代国家・律令体制が整備されるのは,早くとも天武・持統朝であるというのが,多くの見方であったようである。だが,古代国家成立といったときの,諸条件は必ずしも学者のあいだで一致しているわけでもなく,なかには依然として5世紀代に古代国家が存在したと説く学者もみられたのである。とくに最近では,埼玉県の稲荷山古墳の鉄剣銘が発見されてから,日本古代国家の成立期を雄略朝前後,つまり5世紀後半にもとめる見解が有力となりつつあるのである。雄略天皇(大泊瀬の朝倉の幼武(わかたち)天皇)とされる〈獲加多支歯大王(わかたけはのおおきみ)〉の銘文が,北関東の行田市から出土していることは,少なくとも5世紀後半,北関東まで雄略天皇の勢力が及んでいたことを示し,さらに世々杖刀人として天皇家に奉仕していたとされるから,それ以前から大和政権にこの地の豪族は服属していたことになろう。同様に熊本県の江田船山古墳の鉄剣銘も,「ワカタケル大王」と訓むべきだといわれるから,九州中部の豪族も大和政権下に入っていたことになろう。そうすると,日本の古代国家成立が大化前代に遡りうる可能性は十分あることになり,その意味から,新しく「帰化人」「渡来人」の名称は検討されなければならないと思う。好太王碑の碑文や『三国史記』などの倭の解釈も単に文献批判だけでなく,考古学的な見地からも,検討さるべき問題であろう。

〔参考文献〕李進煕『広開土王陵碑の研究』

金錫亨『古代朝日関係史』

上田正昭・井上秀雄『古代の日本と朝鮮』