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●豊臣秀吉 とよとみひでよし

アジア 日本 AD1537 室町時代

1537〜98(天文6〜慶長3)安土桃山時代の武将。生年を1536年とするのはまちがい。

【信長の家臣時代】尾張国愛知郡中村の百姓弥右衛門の子。弥右衛門は織田信秀の鉄砲足軽をつとめ、木下という苗字をもっていたとするが、最近の研究では自小作農とする説が有力である。ルイス=フロイスの『日本史』のなかでは、秀吉の出自について、〈貧しい百姓の倅として生まれ、若い頃には山で薪を刈り、それを売って生計をたて、極貧の際には古いセキ※注1※以外に身を掩うものがなかった〉と記している。『太閤素生記』によると、秀吉は1551年(天文20)、亡父弥右衛門の遺産として永楽銭1貫文をもらって清洲に出、そこで木綿針を買ってそれを売りながら東海道を東へ下っていったという。『絵本太閤記』などの俗書によると、三河国矢作(やはぎ)川の橋の上で野武士の頭領蜂須賀小六に出会って仕えるようになったとしているが、実際に秀吉が武家奉公をした最初は、遠江の頭陀寺城主松下加兵衛之綱であった。のち秀吉は松下加兵衛のもとを致仕し、1554年(天文23)には織田信長の小者として仕えることになった。小者から小者頭へ、さらに足軽にとりたてられ、1561年(永禄4)にはお禰(のちの北政所)と結婚し、足軽組頭・足軽大将と出世していった。信長家臣として頭角を現してきたのは1564年(永禄7)で、美濃の斎藤方部将の誘降工作に抜群の働きをし、ついで墨俣一夜城の築城を完成させ、その功によって墨俣城をまかされ、また、1567年(永禄10)の美濃稲葉山城攻めにも勲功を現し、その翌年、信長が足利義昭を擁して上洛に成功すると、京都奉行に抜擢されている。1573年(天正元)浅井氏滅亡後、浅井氏の旧領近江国東浅井・伊香・坂田の3郡を与えられ、新しく長浜に城を築いた。苗字を木下から羽柴に代えたのもそのころのことである。長浜城主時代の秀吉は12万石の織田大名にふさわしい陣容を整えるため、家臣団の充実をはかった。譜代家臣というものをもたない秀吉が、直臣団として構成したのは、このときの長浜城主時代に近江において編成したのである。五奉行のうち石田三成増田長盛長束正家の3人はいずれも近江の出身であり、秀吉家臣団のなかには近江出身のいわゆる近江衆がかなりの比重を占めている。信長が毛利氏と戦う段階になってからは、秀吉は中国経略の責任者、すなわち中国方面軍司令官としての役割を負わされ、具体的には1577年(天正5)から播磨姫路城を根拠地として、毛利方との戦いが始められたのである。そのあいだ、三木城の別所長治攻め、鳥取城の吉川経家攻めを成功させている。ところが1582年(天正10)の備中高松城攻めの最中、本能寺の変の悲報がもたらされ、喪を秘したまま毛利氏と講和を結ぶことに成功した。

【信長の後継者として】山崎の戦いで明智光秀を破った秀吉は、信長の重臣たちのなかで頭一つリードする形となり、遺領分配・後継者決定のための清洲会議においても信忠の子三法師をたて、信孝を推す柴田勝家とは対立していった。翌1583年(天正11)、その柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破り、信長の後継者としての地位を不動のものとしたのである。小牧・長久手の戦いでは織田信雄および徳川家康と対立したが、講和を結ぶことに成功し、やがて関白となり、さらに太政大臣となった。太政大臣に任ぜられたとき、豊臣の姓も賜わっており、1586年(天正14)からは豊臣秀吉となった。翌年九州征伐で島津氏を降服させ、1590年(天正18)には小田原の後北条氏を滅ぼし、奥州の仕置きもなり、秀吉の天下統一がほぼ完成をみた。

【豊臣秀吉の統一事業】軍事的にほかの戦国大名を凌駕していっただけではなく、秀吉は天下統一のためにいくつかの施策を行っている。最も有名なのは検地刀狩りで、とくに検地の場合、太閤検地の名で知られている。太閤というのは関白の位を退いた人の呼称であるが、秀吉が1591年(天正19)に豊臣秀次に関白を譲る以前からの検地、すなわち秀吉によって行われた検地を広く太閤検地の名で呼んでいるのである。現在のところ、太閤検地の初見といわれているのは1582年(天正10)7月の山城検地である。これは、それまで諸大名ごとに行われていたような指出方式による検地ではなく、秀吉が全国的な統一基準をもって行い、しかも直接に秀吉の検地奉行が棹入れをしたというところに特徴があった。また、田畠の石盛を定め、上・中・下・下々の4等に分け、それまで1反=360歩だったのを1反=300歩とし、枡も京枡に統一するなど、全国的な統一基準で行われた意義は大きいものがあった。さらに、太閤検地では、一地一作人の原則といわれるように、検地帳に登録された農民が百姓であり、それが年貢負担者となった。つまり、このことによって、それまでの複雑な土地所有関係が整理され、旧来の荘園制下の複雑な土地所有関係を整理し、生産物地代に一本化することによって石高制の確立をみたのである。刀狩りは、すでに1585年(天正13)あたりから高野山や多武峯の武器を没収するという形で始められていたが、1588年(天正16)7月8日の〈諸国百姓、刀・脇指・弓・やり・てつはう・其外武具のたくひ所持候事、堅御停止候〉で始まる刀狩令の発布が大きな意味をもっていた。表向きは、大仏の釘やかすがいに用いるとしているが、当時すでに奈良興福寺の多聞院英俊が〈内証は一揆を停止するためなり〉と看破していたように、百姓の武装解除、武士と百姓の身分確定が最大の眼目であったことはいうまでもない。もう一つ忘れてならないのが1591年(天正19)の身分固定法令で、これは、侍・中間・小者などが新たに百姓・町人になることや、百姓が耕作を放棄し、商売や賃仕事をすることなどを禁止したもので、身分固定・兵農分離という近世幕藩制的身分秩序がこれら一連の施策によって確立していったのである。

【朝鮮侵略と秀吉の晩年】秀吉による朝鮮侵略が具体的な動きとして出てくるのは1592年(文禄元)になってからであるが、それ以前、たとえば、1586年(天正14)には日本イエズス会の副管区長ガスパル=コエリヨらに〈日本を統治することが実現したら、日本を弟の秀長に譲り、自分は朝鮮とシナを征服することに専念したい〉(『イエズス会日本年報』)と述べており、単に愛児鶴松を失った悲しさをまぎらわせるとか、老人になって誇大妄想になったなどというのがいかに俗説であるかが明らかとなろう。対外的に領土を拡張しなければ封建的主従関係そのものが維持できないという、封建制そのものに問題があったからであると思われる。ところで、文禄の役では15万8,000の大軍が朝鮮半島に上陸し、初めのうちは快進撃をつづけていたが、やがて、戦線が広範囲になりすぎ、また、食糧も乏しくなり、朝鮮民家の抵抗を受け、さらに決定的だったのは、李舜臣が率いる水軍によって日本軍の輸送船団が壊滅的な打撃を受けたことである。慶長の役でも14万におよぶ大軍が渡海し、朝鮮半島で悪逆のかぎりをつくしたが、なんら得るところなく、1598年(慶長3)の秀吉の死を機に撤退したのである。朝鮮における日本軍の苦戦をよそに、1598年(慶長3)3月15日、秀吉は醍醐の花見を開いた。ところが花見から帰ってしばらくして発病し、やがて寝たきりとなり、ついに7月には五大老・五奉行宛の「覚」が提示され、8月5日には五大老宛の遺言状がしたためられた。それには〈秀頼事、成りたち候やうに、此の書付の衆として、たのみ申し候、なに事も、此のほかにはおもひのこす事なく候、かしく〉とあるように、秀頼の行く末を案じながらの死であった。秀吉はまた海外との貿易をはかり、茶頭千利休から茶の手ほどきを受け、茶器の蒐集にも力を入れていた。なお、大坂城の築城を始め、聚楽第や伏見城・名護屋城淀城など、関係した城は多く、安土桃山時代を代表する絢爛豪華な城郭建築黄金時代を現出したことも注目される。

〔参考文献〕桑田忠親『豊臣秀吉研究』1975、角川書店

桑田忠親編『豊臣秀吉のすべて』1981、新人物往来社

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